神代三山陵の考証【R5】7月16号

 「妙円寺詣りなのになぜ隣の徳重神社に参拝するの?」と,学校に勤めていたときに子どもに聞かれたことがあります。県外ではあまり見かけませんが,鹿児島県内の寺院を訪れると,顔や腕のない壊れた仏像をよく見かけます。これは,いわゆる明治期の廃仏毀釈によるものです。また,学生時代には宮崎出身の友人との会話で何度か神代三山陵の話題が出ました。口論になるのは分かっていながらも,避けられないものでした。(今では笑って済ませますが,あの頃は若く,二人とも歴史好きで本音で語り合っていたのかもしれませんが…)

 話題が出る理由の一つが,神話の天孫降臨の話です。我が家の近くには,御醍院真柱の誕生地や八田知紀の誕生地跡があります。明治維新の話題になると,「廃仏毀釈」や「神代三山陵」の話にまでどうしても発展してしまうのです。

 そこで今回は,明治維新に強い影響を残した三人の国学者について話題にしたいと思います。 

➊ 白尾 國柱(くにはしら) (1762~1821)

 島津重豪の命で「麑藩名勝考」(1795年)や「神代三山陵」(1814年)を記しました。彼は江戸中期から後期にかけての国学者であり,記録奉行や物頭を務めました。江戸では本居宣長や塙保己一,村田春海に国学を学びました。幕末の薩摩の獅子たちにも強い影響を与えました。

・鹿児島市皷川町

❷ 御醍院真柱(ごだいん まはしら) (1805~1879) 「神代三陵志」

 平田篤胤の門下生である国学者。1805年に大河平隆棟の次男として生まれました。実父も国学者であり,34歳の時に江戸で平田篤胤から国学を学びました。36歳で御醍院良次の養子となり,藩校・造士館の訓導(教師)として国学を教えました。主に可愛山陵について分析し,藩主から寺院取調べ役を命じられ,神仏分離の推進役となりました。県や政府の官職を歴任した後,明治11年9月に吉備津神社の宮司を最後に没しました。

・西田校区 郷土史誌より

・鹿児島市薬師町一丁目(現在は駐車場)

❸ 田中 頼庸(よりつね) (1836~1897)

 幕末から明治時代の神道家,国学者で,神社奉行として明治3年に新政府の依頼で三山陵の高屋山陵の調査に関わりました。それまで高屋山陵(国見岳)は鷹屋郷は溝辺郷の木佐貫とされていましたが,彼の建白書を基に明治7年7月10日に天皇のご裁可を得て,高屋・可愛・吾平の三山陵が正式に定められました。また,廃仏毀釈の後半を強引に主導した人物でもあります。

・鹿児島市稲荷町

◎ 三山陵決定までの流れ

① 天照大神~墓は存在していない

② 天忍穂耳尊~天忍穂耳神社(奈良他多数)

③ 瓊瓊杵尊~「可愛山陵(川内)」と「北川陵墓参考地(延岡)」,「男狭穂塚陵墓参考地(西都)」

④ 彦火火出見尊(山幸彦)~「高屋山上陵(霧島市溝辺町)」

⑤ 鸕鷀草葺不合尊~「吾平山上陵(鹿屋市吾平町)」と「鵜戸陵墓参考地(日南)」

⑥ 神日本磐余彦尊(神武天皇) 「畝傍御陵前(奈良橿原)」

※ 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、日本神話の神。日向三代の初代。神武天皇の曾祖父。

・ 治定の経緯

 明治7年に現在の山陵(可愛山陵・高屋山上陵・吾平山上陵)が定められました。治定地はすべて現在の鹿児島県(薩摩国,大隅国)の範囲内でした。山陵名は,『日本書紀』で「筑紫日向可愛之山陵」・「日向高屋山上陵」・「日向吾平山上陵」と記載されていますが,九州の日向とだけあり,詳しい場所の記載がないため,後に宮崎と鹿児島の間で論争になっています。

 宮内庁の見解では,明治7年に天皇のご裁可を得て高屋・可愛・吾平の三山陵を正式に定め,宮崎の延岡・西都・鵜戸陵墓は参考地となっています。日向神話だから宮崎が強い立場にありますが,お互いのルーツに関わることで,引くに引けない状況です。

 県境については維新以降いくつかの変遷があり,現在は韓国岳やお鉢は鹿児島県に属していますが,肝心の高千穂峰(重豪の時代からこだわっていた天孫降臨の山頂)は宮崎県になっています。

① 久之,天津彦彦火瓊瓊杵尊崩,因葬筑紫日向可愛云埃之山陵 
② 久之,彦火火出見尊崩、葬日向高屋山上陵。
③ 久之,彦波瀲武 鸕鷀草葺不合尊、崩於 西洲之宮、因葬日向 吾平山上陵。
※ 三山陵に関する日本書紀上の記載

 ウィキペディアによると,大隅国は和銅6年(713年)に日向国から分離して成立しており,日本書紀には720年にウガヤフキアエズが日向国(現在の宮崎県)で没した旨が記録されています。このことから,鹿屋市の吾平山陵ではなく,本来の神代三陵の場所は日南市宮浦の鵜戸神宮の周辺であるという説があります。

 しかし,同じく日本書紀に記された皇紀(神武天皇即位の年を元年として定められた紀元)との矛盾については問わないのでしょうか。皇紀元年は713年の遥か前の西暦紀元前660年にあたります。現在,鹿児島県は治定地,宮崎県は参考地として,いずれも宮内庁により管理されています。

 ・歪に入り込んだ県境も御鉢まで

 天孫降臨の神話で高千穂の話がありますが,先の友人の指摘で高千穂峰が宮崎県に属していることを知りました。子どもの頃から,宮崎県との境は韓国岳と高千穂峰を結んだ線であり,霧島山は鹿児島県であると思い込んでいたため,ショックを受けたことを思い出します。神代三山陵を強引に設定した明治政府の薩摩役人の力も,西南戦争後の政変等で薩摩閥の指導力も徐々に落ちていったのです。現在の県境は紆余曲折を経て,明治16年5月9日に太政大臣の令達で最終的に宮崎県との県境が確定しました。

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  R6年7月5日「高原町の霞神社」もご覧ください。

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