先日,戦後80年の特集番組で,「墨塗り教科書」のことが取り上げられていました。その映像を見ているうちに,私はふと,高校時代のある出来事を思い出しました。
自宅の引越し作業中,母が一冊の古い教科書を見せてくれたのです。ところどころ黒く塗りつぶされたその教科書は,まさに「墨塗り教科書」でした。母は戦後すぐに小学校の教壇に立ち,最初の授業が教科書の墨塗り作業だったのだそうです。
「何故か捨てられなかった」と母はそう言って,写真と一緒に大切にしまっていたようでした。しかし,いつの間に処分されたのか,今はもうなくなってしまいました。あの時見た黒塗りの教科書が今も記憶に残っています。

・GHQに墨塗り教科書を,長い間強要させられていた学校現場
それから十数年後,私が社会人となり,父の教職員住宅への引越しを手伝いに行ったときのことです。父が校長として赴任した小学校は,たまたま母の初任校で当時の教え子たちが手伝いにきていたのです。その人たちから,当時の母の授業や一緒に遊んだことなど楽しい思い出話を聞くことができました。
校長訓辞
その中で「墨塗り教科書」のことも話題に上がりました。授業中,子どもたちから教科書に墨を塗ることへの疑問の声が上がると,「先生は,『戦争に負けたいうことはこういうことです』と,きっぱり言いながら私たちに墨塗りをさせました。その態度から後は誰も文句を言いませんでしたよ」と,一人の教え子が話していました。「次の神社の絵と,その次の軍隊の行列の絵は全て墨で消してください。それから8ページから10ページまでの3ページは切り取ってください。」子どもたちは黙々と母の指示に従っていたそうです。母と教え子たちの最初の授業日だったことや大切にしていた教科書に墨を塗ったり,破ったりして無残な教科書になった印象が強烈だったようで,みんな覚えていたとのことでした。
保護者の間でも,母が若く責任が無かったことと,毅然とした態度に批判の声も出なかったそうです。年配の同僚の先生方の中には保護者から,戦時中の指導について厳しい批判を受けた方もいたようですが,母に対しては,そのようなことも無かったのです。今思えば,当時の校長の訓辞をそのまま伝えただけですが,母も若かった故に「時代は常に入れ変わる,その時々に真摯であれ」と戦前・戦中・戦後を生き抜いた世代の思いが,子どもたちにも伝わったのかもしれません。
母の教え子
「縁は奇なり」母が初めて赴任した初任校が,偶然,父の最後の勤務校だっただけでなく,母の教え子がこの小学校のPTA会長を務めていたのです。引越しの手伝いに行った日,たくさんの方々がお手伝いに来られ,その中に母の教え子が何人も来ていました。「教師冥利に尽きる」とはこのことで,思いがけない再会となった出来事でした。

・国民学校で使われた教科書
GHQの占領政策「墨塗り教科書の使用」
戦後,教科書が新しく作られるまでの間,教師たちは,この「墨塗り教科書」を使って授業を行うしかありませんでした。後に暫定教科書が使用されますが,これを直ぐに使わず長い間この墨塗り教科書を意図的に使用させたのです。これは,GHQが「日本の軍国主義教育の要素を排除する」ために行った占領政策の一つでした。その狙い通り子どもたちや保護者たちからこれまでの誤った教育に対して批判が数多く寄せられ,当時の学校現場に暗い影を落としました。
昭和21年1月,GHQから教科書の削除内容が発表され,それに従って子どもたち自身が教科書の該当箇所を墨で塗りつぶしていきました。朝ドラ・アンパンで「逆転しない正義とは」というセリフが何度も登場しますが,この「墨塗り教科書」もその一つなのでしょう。暫定教科書ができたのは昭和21年の4月で,それまでの間,軍国主義を含む部分は墨で塗られ読めなくなり,中には教科書の三分の一ほどが黒く塗りつぶされてしまった教科書もありました。当時の教師たちは,敗戦国となった以上,軍国主義教育が復活するはずもなく「心配ご無用」と言いたかった筈です。
また,GHQの指令により,修身(道徳)や日本史,地理といった科目は一時的に授業自体が停止され,教科書は回収されて紙の原料として再生されました。その他の教科書についても,民主主義に反する内容があれば,墨塗りやページこど切り取る命令が出されました。
職員会議では,校長から墨塗り作業の具体的な指示があり,先生たちはそれに従って授業を進めました。軍国主義に関する箇所の墨塗りには特に抵抗はなかったものの,神社や宗教に関わる部分まで消すことには抵抗があると意見を出した先生方もいたそうです。 そうした職員たちの不満を静かに聞いていた校長は,最後に「戦争に負けたということは,こういうことです…」と訓示したそうです。私の母はその言葉をそのまま子どもたちに伝えながら,教科書の墨塗りを一緒にやったと話していました。
母は戦前の尋常小学校での教育や,戦時中の女学校における軍事教育の両方を受けていましたので,戦争とは何かを十分に理解していました。当時,母をはじめ何人かの職員が教職を辞めた理由の一つには,そうした背景もあったようです。
この教科書騒動は,終戦後の「墨塗り教科書」,昭和21年度の「暫定教科書」まで続き,昭和22年度の「検定教科書」開始でようやく終わったのです。

・切り取られたページ