『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語①』

 「三国名勝図絵」に明人張昂寄寓(居候)の項があります。その他にも「薩隅日地理纂考」,「征韓録(平田純正等編修)」,「鹿児島外史」,「西藩野史(得能通昭)」,「島津義弘公記(谷山初七郎著)」,「泗川御在陣記(川上久國)」,「泗川新寨戰捷之偉蹟(東郷吉太郎編著)」,「万暦期に日本の朝鮮侵略軍に編入された明朝人(鄭潔西)」,「鹿児島県史料」,「薩摩藩対外交渉史の研究(徳永和喜)」,「和歌山県の文化財第一巻(安藤精一)」,「頴娃村郷土誌(有川天涙編)」など多くの著書に孫次郎のことが記されています。これらを参考にして,物語にしてみました。

 頴娃町耳原に住み,頴娃久虎と行動を共にし,藩の記録掛や通訳として藩の重役にも好かれ活躍したことを『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語』として当ブログで紹介したいと思います。

三国名勝図絵「明人張昂寄寓(居候)」より

 張昂は明国南京の出身で,15歳のときに父を亡くしました。不仲な継母から毒殺されることを恐れ,日本へ逃れてきました。彼は薩摩国の頴娃村民原(耳原)の農家に身を寄せ,名を孫次郎と改め,その農民から実の子のように育ててもらいました。

 その後,当時の領主である頴娃左馬介久虎の目に留まり,孫次郎を自らの家来として迎え入れました。孫次郎には筆硯(記録係)として豊後の戦いなどに従軍する使命が与えられました。 やがて継母が亡くなったことを聞くと,孫次郎は藩の職を辞し,故郷の南京に帰国しました。太閤の征韓の役では,明軍の将軍が日本語に通じた孫次郎を通訳として召し抱え,彼は新塞などにもしばしば派遣されました。明人の著作『平壌録』などに「通訳張昂」と記されている人物こそ,この孫次郎であり,本藩の古い記録にもその名が残っています。

1 はじめに

 豊臣秀吉の時代,頴娃町耳原の寺下に住んでいた百姓,市兵衛の家に,日本名を孫次郎(張昂)という若い中国人がいました。彼は久虎の軍師として薩摩藩の九州平定で活躍し,朝鮮の役では明国の通訳(倭通事)および島津家の使者として両軍を行き来し,講和交渉に尽力しました。彼の活躍により,危機的状況にあった島津軍を救った恩人といえるでしょう。

 二度にわたる朝鮮の役は,倭城の築城を進め,大小の戦闘や講和を繰り返す長期戦となりました。その勝敗は,朝鮮の統治,年貢(兵糧)の確保,築城のための労役,さらには戦況や敵軍の状況をいかに正確に把握するかによって大きく左右されました。

 泗川の役で,わずか数千の兵で20万の明・朝鮮連合軍を打ち破った大勝利は,秀吉によって没収されていた出水5万石(出水市・長島町など)の返還をもたらしました。また,関ヶ原の戦い後の島津家の所領安堵にも寄与しています。もし,孫次郎という凄腕の外交官がいなかったら,泗川の勝利もなく,薩摩は領土を失い,明治維新も成し遂げられなかったかもしれません。  

孫次郎(張昂・ちょうこう)とは

 孫次郎(張昂)は,島津氏の史料である『島津中興記』,『泗川御在陣記』,『三国名勝図絵』などにその活躍が記されています。彼は頴娃久虎の家臣として中国古来の兵法を学び,島津氏の九州平定の戦いに参加しました。豊後の大友宗麟や肥後の相良義陽との戦いでは,軍師として作戦を立案し,また記録係としても務めました。

 その後,孫次郎は明国との交渉役として一時帰国し,朝鮮の役では通訳(通事)として講和交渉に尽力しました。彼は華僑統領の長男でしたが,ある事情で明の船員として働いていた際に倭寇に捕らえられ,坊津に連れてこられました。薩摩藩主義久の家臣には,許三官や郭国安といった唐人の名が残されているように,中世の薩摩には中国人にまつわる多くの話が伝わっています。その中で,日本に帰化し,医者や商人,唐通事として活躍した中国人の存在は古くから知られており,張昂もその一人です。

 薩摩藩は他藩とは異なり,中国と国境を接し密貿易を行っていたため,その関係強化が重要でした。山川港を統治していた頴娃氏も同様の事情を抱えていたと考えられます。明に帰国後,張昂は明国の将軍に日本語通訳として雇われましたが,島津との交渉役としても活躍しました。

 孫次郎は,中国古来の兵法を唱え,「戦は兵の数ではなく組織の結束が重要である。寄せ集めの集団は弱点が多く,島津軍は戦闘に慣れ,名誉と藩の存続のために命を惜しまぬ軍団だ」と,明の将校たちに忠告しました。彼の言葉は,鬼のように強い島津軍の戦いぶりを知る者として重みがありました。その結果,明軍の指揮官たちは新たな攻勢を控え,一時的に講和を模索することとなり,二使を送り和議の意思を探りました。そのうちの一人が孫次郎でした。

 やがて,豊臣秀吉の死が明軍側に伝わり,最終的に10月1日,泗川が戦場となりました。しかし,元々島津の家臣であり,薩摩言葉も操る孫次郎は,単なる通訳者ではなく,双方の立場を理解し交渉に臨むことができる有能な交渉人でした。戦前の交渉から戦後の処理に至るまで,孫次郎は日中両国の講和や朝鮮人民の利益を考え,自発的に行動しました。その結果,島津軍をはじめとする日本軍の円滑な退却が可能となったのです。

 戦は時の運であり,状況次第では島津軍が全滅する可能性もありました。情報収集や講和の調整,戦後処理に尽力した孫次郎は,薩摩の恩人であると言っても過言ではありません。そのことは,孫次郎に関する記録が明国と薩摩の双方に数多く残されていることからも明らかです。

朝鮮の役(文禄・慶長の役)とは 

 1592年3月,秀吉の号令のもと各藩は朝鮮へ出兵しました。その際,島津義弘は精鋭部隊を率いて朝鮮に渡り,普天や永平などの城を攻略する大きな武功を挙げました(文禄の役)。慶長2年には再び朝鮮への出兵が命じられ,島津義弘は1万の精兵を率いて再度朝鮮に渡りました。その部隊の中には,頴娃の領主であり,久虎の子である14歳の頴娃久音も含まれていました。若き領主の初陣には,津曲才助ら頴娃生え抜きの古参兵が付き従いましたが,久音は朝鮮で病に倒れ,亡くなりました。これにより,伴姓頴娃氏はその歴史に幕を下ろすこととなりました。頴娃城で共に学んできた孫次郎にとっても,これは悲しい出来事でした。

 明の大軍が攻め寄せ,固済島や蔚山での大戦が繰り広げられましたが,薩摩軍はそのたびに大いに活躍し,敵に対して圧倒的な力を見せつけました。そのため,「鬼石曼子(おにしまづ)」と恐れられる存在となりました。特に泗川新塞での大合戦では,島津義弘がわずか数千の兵で,明軍20万の大軍を打ち破り,明軍の死者が38,717人に達したのに対し,薩摩側の戦死者はわずか数百人という,世界戦史においても類を見ない大勝利を収めたとされています(慶長の役)。 翌年,義弘は高野山に泗川の役で亡くなった敵味方の供養塔を建立しましたが,その際,明兵8万人と記しました。この数字は張昂の証言によるものです。張昂は,小西如安への回答で,「目付役の報告および余剰米を根拠に8万人を算出し,明に報告した」と述べています。当時の連合軍の全体数は不明であり,壮絶な戦闘後の混乱の中で正確な戦果を把握することは不可能だったとされています。

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