『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語③』

藩の役人として孫次郎

 孫次郎が登城した獅子城

 ・獅子城(頴娃城)天守跡

 頴娃久虎は,孫次郎を家臣として迎え入れ,獅子城に住まわせました。1578年9月の日向石ノ城(西都市北側)攻撃や,1581年8月の肥後水俣城攻撃,その他の合戦にも孫次郎を同行させました。孫次郎は久虎の側近として陣中の文書記録の仕事に忠実に従事し,その能力と働きぶりは次第に藩の重役たちの目に留まるようになりました。

・獅子城(5階建ての天主を持つ山城と伝わる)登り口

 その後,風の便りで南京の継母が死んだことを知り,孫次郎はもはや誰にも気兼ねする必要がなくなりました。南京の家で古くから仕えていた者が3人迎えに来て,是非とも明国に帰ってほしいと願い出ました。そこで孫次郎は帰国の意志を固め,まず久虎に事情を説明し,帰国の許可を願い出ました。久虎は今後の中国との貿易のことを考え,一つの役目を伝えると,帰国用の船まで手配してくれることになりました。孫次郎は大いに喜び,耳原の育ての親である市兵衞にお礼と別れを言いに訪れました。しかし,その矢先に久虎が落馬して急死し,帰国の計画が難しくなり,孫次郎は頴娃に留まることになりました。しばらくして,藩から重要な使命が託され,帰国の途につくことが決まりました。秀吉による「倭寇禁止令」が発布された後,比較的安全に帰国することができました。

帰国後の孫次郎

 明の南京に帰国すると,豊臣秀吉が朝鮮に攻め込む文禄の役が発生しました。明国政府は,薩摩の差使人であった孫次郎をそのまま明軍の倭通詞として召し抱えました。その頃までは明と薩摩の関係は良好で,孫次郎も長く薩摩に在留し,日本の事情にも通じていたためです。

倭通事(日本語通訳)としての孫次郎  

 朝鮮の役において,明は孫次郎を日本通詞として,日本軍の陣中に出入りさせ,情報収集を行わせていました。孫次郎は特に薩摩の陣中に頻繁に訪れていました。

(一) 董一元への孫次郎の進言

 秀吉亡き後,明の将軍董一元は,戦い方や日本軍の撤退,戦後処理を有利に進めるための方策を考えていました。まず,日本軍の中間拠点である泗川を攻略するために,新塞の島津勢を攻めることが決まり,孫次郎に意見を求めました。「お前は以前薩摩にいて,島津が兵をどのように使うか見たことがあるか?」と尋ねました。孫次郎は「島津は攻めて取らなかったことがなく,戦って勝たなかったは無かった」と言い,九州を平定したことを話しました。さらに,「これまで蔚山の清正や順天の行長を攻めても,未だに落とせていないのに,どうしてはるかに強い島津を破ることができましょうか」と答えました。明の将軍はこれを聞き,新塞を攻めるのは得策ではないと判断し,孫次郎を特使として派遣し,和議を講じれるか真意を探るための交渉にあたらせました。

(二) 講和交渉でやってきた孫次郎

 「おお,孫次郎か。よう参った。さあ,上がれ」と,薩軍の将,川上は親しげに声をかけました。孫次郎は頭を下げて,「お久しゅうございます。ところで大将はいらっしゃいますか。今日は殿様にお目にかかりたいことがございます。よろしければ,お会いさせていただけますか?」と,薩摩弁で話しました。

 「ははは,それは簡単なことじゃ。では,取り次いでやるから,しばらく待っておれ」と言って,川上は奥の方へ向かいました。しばらくすると,「君公のお召しだ。わしについて来い」との声があり,孫次郎は急いで義弘公の居間へと入って行きました。

(三)義弘との再会

・第十七代藩主 島津義弘

 「おお,孫次郎ではないか。息災であったか」と義弘公が声をかけました。「お久しゅうございます」と孫次郎も懐かしそうに義弘公の顔を見上げて応えました。「殿様は薩摩の大弟,御館はこの張昂が主,頴娃左馬介様の公館と差し向かいで,私は使者として漆の鞍をお持ちしたことがございます」と,流暢な言葉で話しました。義弘公はにっこりと笑い,「ああ,そんなこともあったな」と懐かし気に言いました。

 孫次郎は床に手をつき,「私が薩摩を去ってから十数年,一日たりとも薩摩の御恩を忘れたことはございません。今日,その御恩に報いるために,明軍の秘事を殿様にお伝えに参りました」と言いました。そして,懐から一通の書状を取り出し,恭しく義弘公に差し出しました。「詳しい内容については,この明王の国書に記されています。何卒,ご一読ください」と付け加えました。

 義弘は無言で書状を受け取り,黙読しました。文面には次のように記されていました。『明・朝鮮連合軍は兵百万をもって水陸両軍で攻めており,あなたの居場所はすでに死に場所と同じである。生き延びるには,明の許しを請い,直ちに出帆して立ち去ることである』と,降伏と撤退を求める内容が記されていました。

 義弘公はもともと漢学の素養があり,孫次郎の翻訳をかいさず,すらすらとその国書を読み終え,「ふふん」と鼻で笑いました。この国書はまさしく明王第十四代万暦帝の自筆の親書でした。

 明が後追いしない条件を提示することで,島津が講和に応じて陣を退くであろうと孫次郎に交渉させてきたのです。しかし,秀吉の死によって,すべての状況が変わっていました。

 「ほう,明王の親切な言葉もこの程度のものか…。孫次郎よ,もし他藩に先んじて逃げれば,島津の名は地に墜ちる。この義弘はどんな大敵も決して恐れる者ではない。帰ったら明の大王にこう申し上げるがよい。『謝罪するのはそちらの方である。たとえ百万,二百万の大軍で攻められても,島津義弘は謹んでお待ちしている』と,これは大切な書付けだから,紛失してはならぬぞ」と言って,義弘公はすぐに返書を書き,孫次郎に渡しました。

タイトルとURLをコピーしました