『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語④』

孫次郎の秘策伝授

 「久虎のもとで中国古来の兵法を学び,軍師としての経験を積んだお主のことだ。明の勢いはいかがか」と義弘公が尋ねました。孫次郎は「20万の大軍でございますが,その実態は現地の農民を雇って成り立っている烏合の衆でございます。」続けて,「連合軍は油断し,兵士たちは村々からの乱取り(強奪)ばかりの有様で,百姓たちは山中に逃げ隠れています。そのため,新寨の薩摩の食料庫を狙っています。」と説明しました。

 義弘公はさらに,「食料庫のことは手勢が策を考えている。それより明の火器についてはどうか。朝鮮水軍のような火器で攻められた場合,我が軍も厳しくなるだろう。何か良い手立てはないか」と身を乗り出して聞きました。孫次郎は義弘の不退転の決意を察知すると,覚悟を決めて島津のために新寨攻防の策を練り始めました。

 「余りに大軍の相手ですので,種子島(銃)や釣り野伏せの作戦も効きません。まずは,大軍を散り散りに分散させ,混乱させることが肝要です。明軍の火薬庫は警護が厳しく,距離があるため,薩摩の大筒では届きません。さて,火薬庫の内部はこのようになっています」と言って,孫次郎は見取り図を描き始めました。「よう教えてくれたな」と驚く義弘に対し,孫次郎は向き直って答えました。

 「今は明の通事として働いていますが,元来,島津に忠誠を誓った身です。明の陣中には信頼できる仲間もおります。」と述べた後,急に小声になり,「もし,2~3人の命要らぬ者がおれば,火薬庫を爆破する手筈を整えることができます」と耳打ちしました。

 義弘は大変驚き,「お主,そのことが露見すれば,一族皆殺しであるぞ」と言い放ちました。孫次郎は全てを覚悟した様子で,「私はかつて島津の家臣,明将も心底信じておりますまい。人質を差し出していますが,薩摩との交渉役として残すため,殺されることはないでしょう。もとより,八幡(倭寇)によって一度は死んだ身であり,私の恩義は育ててもらった耳原の父,市兵衛と亡き久虎様にございます」と言いました。

 しばらくの沈黙の後,孫次郎は続けて,「殿,私はかつて日向石ノ城に出向いた際,稲荷様に戦勝祈願をし,九死に一生を得ました。今回も御加護があるかもしれません」と言いました。

・「正一位高麗稲荷大明神」(帖佐小学校裏)

・戦死稲荷が祭られている神社 

 義弘は「そうじゃ,稲荷様の助けとしようではないか。この窮地で,兵の士気も上がり,お主も助かるであろう」と笑いながら言いました。すぐに義弘のもとに,3人の屈強な若者が呼ばれました。「わしのため,いや薩摩のために,お主らの命をもらえぬか。この戦は,薩摩の存亡を左右する。相手は大軍じゃが,お主らの力があれば恐れるものではない」と義弘は図面を指し示しながら些細を話しました。

 若者たちは「われら一族の名誉なれば,我ら三人,この大役をぜひとも果たしてみせます」と答えました。さっそく孫次郎から細かな手筈を聞き,準備に取り掛かりました。孫次郎は勝利を願い,島津の陣営を退出し,明の陣営に義弘の返書を持ち帰りました。

 翌日,明軍は「明日10月1日の御前中,新寨を攻める。予めそのことを予告しておく。寨将は慌てふためくことがないように」との高札を城外に掲げました。しばらくして,家臣川上手勢による挑発や食料庫の焼き討ちの後,泗川新寨への攻撃が始まりました。怒涛の如く連合軍が攻め入る中,義弘は小競り合いの後,島津兵の焦りを抑え,出陣の命を下しませんでした。

危機を救った紅白のキツネ

 その時,紅白の狐が火薬庫を目指して飛び出しました。この狐は,赤狐の瀬戸口重治と市来家綱,白狐の佐竹光明坊の三人の若者が扮したものでした。突然のことで,敵兵たちはあ然とする中,狐の体に巻き付けた火薬に火をつけ,自爆した三人。次々に火が燃え移り,大爆発が起こりました。

 その凄まじい爆発に驚き,20万の連合軍は一気に烏合の衆となり,混乱を極めました。その音を合図に,島津の銃が一斉に火を放ちました。「紅白の稲荷様が火薬庫を落としたぞ。我が島津の守り神の御加護だ。今こそ出陣じゃ!」義弘のかん高い号令と共に,ついに城門が開き,壮絶な戦いの火蓋が切られました。

・ 高麗稲荷大明神

 脱兎の如く逃げ惑う連合軍に対し,島津軍は地形を生かし,得意の釣り野伏せ戦法を容赦なく仕掛けました。連合軍の何万もの兵士が次々と命を落とし,まるで地獄絵図のような光景が広がっていきました。激戦が続く中,地獄と化した惨劇の場を目の当たりにしていた孫次郎は,ただ立ち尽くすしかありませんでした。

 しかし,この作戦がなければ,20万の兵と大量の火薬は新寨に向けられ,島津軍もひとたまりもなかったでしょう。明軍にとっても重要な火薬庫を,厳重に警備していたのです。そのため,詳細な手引きがなければ,大軍の中で容易に実行できることではありませんでした。孫次郎が両陣営に出入りし,知り得た情報が勝利に繋がったのでした。  

交渉人としての孫次郎

 朝鮮半島では,島津を意味する「石蔓子・時万・沈安道」などいくつかの呼び方がありました。これは他藩には無いことで,島津が地域に深く入り込み,住民の統治を行っていた証拠です。農民たちが島津氏を信頼し土地に戻ることで,年貢の徴収や倭城の普請が可能になるのです。また,泗川の戦いがどれほど猛烈で徹底的であったか,島津が「鬼石蔓子(おにしまづ)」と呼ばれ,連合軍を恐怖に陥れたかがこの呼び方で分かります。

泗川三勇士の碑

・鹿児島稲荷神社

 「銃戦術を得意とし,白兵戦では百戦錬磨,鬼のように強い島津軍」という孫次郎の暗示は,寄せ集めの連合軍の指揮を躊躇させ,結果として泗川の戦況に大きな影響を与えました。明将は孫次郎の熱心な進言を聞くうちに,新塞を攻めるのは得策でないと考え,参謀の史龍涯と通事の孫次郎を使者として派遣して和議を講じるか,真意を伺うことにしました。中国側も,秀吉の死後に戦う意味がない日本軍が詫びて撤退してくれるはずであると考えていたのです。

 当初,董一元は孫次郎から泗川攻めを無謀だと戒められ,薩軍の多様な戦術や個々の能力を恐れて進軍するのをためらっていました。そのため,朝鮮の諸将は董一元の不甲斐なさに耐えかね,早急な決戦を主張しましたが,これが島津側の未完成の城壁改修に時間を与える結果となったのでした。

 しかし,泗川古城が容易に落とされると,董一元は「張昂の戯れ言を信じたのが間違いだった。今から新寨を攻める」と宣言したのです。この言葉に,明の諸将は喜び勇み,飛び出していきました。連合軍が前後の考えもなく突進しているとき,火薬庫の大爆発が発生し,連合軍は混乱し「烏合の衆」と化したのです。そこに,容赦ない島津の銃の迎撃が加わり,回復困難な大敗を喫することとなりました。

 孫次郎は,朝鮮の荒廃した国土と苦しむ人々を見て,一刻も早くこの悲惨な戦いを終わらせたいと考えていました。兵法にもない残虐な戦いの中で,数年の間に国民の一割以上が殺戮されました。戦いの後,孫次郎は地獄と化した泗川の地に立ち,耳原の六地蔵塔の碑文に刻まれた「世の中が平和に治まり穏やかであり,狼狽える人がいない世,迷い苦しみから人間を救ってくれる世を願う…」を思い出し,自責の念に駆られました。

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