【Ⅰ】鹿児島市の伊能測量について【R5】12月1号

第八次(1812)の測量について

・ 伊能忠敬は、小学校の学習指導要領において第6学年の社会科で取り上げられ、その業績や測量内容が教科書で詳しく教えられています。また、高学年の道徳や中学年の歴史・地理の内容にも関連しており、身近で興味深い教材となっています。

 以前、私が勤務した海岸近くの学校では、伊能隊が校区内を測量しながら通ったことを子供たちに伝え、授業で梵天代わりの竹の棒、分度器、そして20メートルの長いヒモを使用して、子どもたちに実際の測量体験をさせたことがありました。学校のすぐ横で伊能忠敬が歩いた場所を知りながらも、この歴史的な出来事を教える教師が少ないことに疑問を感じていました。

 「地域に根差した教育活動」と言われる通り、伊能忠敬の測量活動は地元の歴史や文化と結びついており、学校で積極的に取り上げるべき素材の一つだと考えます。今回、鹿児島測量の第八次に焦点を当て、鹿児島市と種子・屋久の測量について詳しく取り上げることで、どの小学校の校区を通ったのか調べ、伊能忠敬の偉業をより身近に感じさせる機会としたいと思います。

① 指宿街道(18校)
 松原・城南・八幡・中郡・鴨池・南・宇宿・東谷山・清和・谷山・和田・福平・平川・瀬々串・中名・喜入・前之浜・生見
② 出水街道(9校)
 石谷・玉江・犬迫・武岡台・明和・原良・西田・山下・名山
③ 大口筋(7校)
 宮小・牟礼岡・吉野東・吉野・大明丘・清水・大瀧
 ※ 計34校 (78校) 鹿児島市の43%学校を伊能隊が測量していることになります。

鹿児島市街地の測量について

 第七次(1810年)の測量において、鹿児島本土の海岸線はほぼ測量が終了していたため、第八次では本隊と支隊に分かれ、主要な街道などの横断測量も実施されました。特に注目すべきは、鹿児島城下の測量が9日間にわたり行われたことです。これにより、鹿児島城下の地勢や地形に関する詳細な情報が得られたことになります。意外とも言えるほど、城下測量が詳しく行われていたことが伺えますね。

・ 鹿児島市の測量図(明治17年の地図に当てはめた予想経路)

・ 第八次(1812)の鹿児島測量は,佐敷で分かれ,忠敬本隊は大口(大口筋)から,支隊は出水(出水筋)から鹿児島に入りました。3月2日に伊集院から34キロ余りで城下に着きました。測量開始まで天体観測を2回実施した他は出水筋・大口筋測量の記録の整理であったようです。

 3月8日朝7時に下町・呉服町から宿泊所まで逆に測量していきました。琉球館前の新橋より始め,泉町・車町・地蔵町・柳町・城下木戸・大鞁橋(大乗院橋)・実方まで測量し,呉服町宿泊所まで測りました。吉野村から始め菖蒲谷・吉野本村を測り宿泊所に帰りました。

 3月10日お昼に城下から乗船し山川湊へ行くことができました。3月14日山川に上陸するまで,5日間荒天で接岸できず船内で逗留しています。3月27日屋久島安房村の川湊からようやく上陸(14日間)3月29日ようやく測量出来るまで20日を要しています。ようやく5月23日に鹿児島に戻っています。種子・屋久の測量に2カ月半を要しほど当時の離島測量は困難でした。鹿児島城下から乗船し,国分郷浜ノ市村に到着後北上し,隼人から霧島神宮を経由し,都城高原に入って鹿児島に測量を終えています。

伊能図のズレについて

 伊能図は緯度の測定において、天体観測や縮尺などの影響から実際の地形とずれが生じています。特に北海道と鹿児島南部は、実際の位置よりも東に大きくずれています。このずれの原因として、江戸と観測地の経度測定における誤差や磁気偏角、気象条件などが挙げられます。当時の望遠鏡などでは、木星の衛星の凌犯現象の観測などが非常に困難であり、その結果として天体観測による経度測定の精度が低かったことが影響していました。

 こうしたことから、伊能忠敬は高い山や島などの方位測定を行っていたのです。特に方位測定は、地形の特徴や方向性を正確に把握する上で重要であり、これらの情報が地図を作成していく上で大いに役立ったのです。

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