【Ⅲ】伊能測量の未測量区間「遠測術」【R5】12月3号

・赤の測量線が描かれていない区間

「遠測術」について

 次の伊能図を見る限り、南大隅町の辺塚から戸崎までの区間には測量赤線が記入されていませんが,どうしてでしょうか。伊能図は実測に厳密にこだわっており、測量されていない部分は他の資料で補完し,作図されることはなかったとのことです。私が伊能大図を元に調べた範囲では,ここだけです。伊能忠敬は当時の技術や資源の制約のもと、限られた時間と人員で広大な地域を測量していました。日記によるとこの区間では「遠測術」という方法が採られたとのことです。つまり船測や街道測量で測っているのではなく,この海岸線が見通せる高い山に登って「見通し」で描き,後に調整していく方法だそうです。(この禁じ手を取った背景には,薩摩国の地図の正確さを認め参考にしたからでしょうか?)この区間が欠落しているのは、測量の困難さや他の事情が影響していた可能性があります。鹿児島測量には未測量の部分が存在することが分かりました。

伊能の測量日記より

 「伊能忠敬測量日記」の文化7年(1810年)6月6日から8日の記事によれば、当該期間中は波が高くて船が出せない状態でした。そのため、伊能隊は船測ではなく、山に登り、山頂からの測量(遠測術という方法)を行いました。この事情から、当該区間の伊能図には赤の測量線が引かれていないものと考えられるそうです。(伊能忠敬記念館学芸員より)

① 6月6日、朝7時頃、伊能隊は郡村の大崩灘から測量を始めましたが、この日は波が高く、船による測量が不可能でした。辺塚村の戸崎まで2740メートルを測定し、辺塚村の崎山より波が高いため、約220メートル山に登りました。悪天候のために一部の測量が残り、昼に宿泊所に到着しました。曇っていましたが、雲間から天体観測を行いました。

② 6月7日、朝7時頃、辺塚村を出発しました。この日も悪天候で、測量が難しい状況が続きました。山道を田辺に300メートル登りました。肝属郡の境,中河原から岸良村の大浦まで7140メートルを測定しました。大浦に宿泊し、青木隊は辺塚村に残って波が収まるのを待ちました。

③ 6月8日、朝から晴天でしたが、風と波は依然として高かったです。朝9時に辺塚村より逆に戸崎手前まで測定し、戸崎岬は荒波のため、町間術(遠測術)を用いて測定しました。夕方5時頃に宿に戻りました。その夜は晴天で、天体観測が行いました。先発隊は岸良村大浦から始め、鯨背鼻まで測定し、再び大浦に宿泊しました。

天体観測や山島方位について

★ 内之浦から佐多岬間の大隅半島太平洋岸(黒崎・松﨑・打詰・戸崎・松瀬﨑)には,種子島・馬毛島・硫黄島への11本の測量線(山島方位)が引かれている。

・ 戸崎付近には赤の線が描かれていないことから、測量が実施されていない可能性があります。天候に左右される測量なので、あらゆる事態を想定し、横断測量、遠測図、緯度・経度の測定(天体観測)などを行い、また各藩からの国絵図(特に薩摩絵図は正確であった)の提出も行っていました。これらの手法を組み合わせ、実際の測定値と比較・調整することで、地図の正確性を確保していました。

 特に「山島方位」については計画的に測定が行われ、屋久島や種子島から開聞岳や竹島、硫黄島、馬毛島、佐多岬などの遠測記録が残されています。これにより、一部の記録が紛失しても地図の作成が可能であったはずです。伊能忠敬は高い測量技術と共に,計画的なアプローチによって、地域の詳細な地図を作成することが出来たのです。

※ 大隈半島の測量していない箇所?

延べ92日間の測量について

(1) 第八次測量ルート

 2月20日、佐敷で本隊と支隊に分かれ鹿児島の街道沿いを測量していきました。(前回海岸線を済ませているので)忠敬本隊は大口(大口筋)から、支隊は出水(出水筋)から鹿児島に入りました。その後、山川湊を経て、3月27日にようやく屋久島に渡りました。4月26日には種子島に渡りましたが、実際に測量を開始したのは5月9日から21日までで、ようやく5月23日に鹿児島に戻っています。

 帰路の測量では、鹿児島城下から乗船し、国分郷浜ノ市村に到着後に北上し、隼人から霧島神宮を経由し、都城高原に入って鹿児島まで測量を行いました。忠敬は後日、「屋久島測量が日本一の大難所であった」と感想を述べています。この期間は、地形や気象条件の厳しさから測量作業が非常に困難で、屋久島などの地域は荒天のため過酷な状況に置かれたことが伺えます。忠敬はこれらの難所での測量に果敢に挑戦したことも、この事業が成功に繋がったと言えます。

(2) 薩摩の正確な国絵図

 伊能測量は第五次以降、幕府の直轄事業となっています。薩摩藩は全面的に協力し、特に種子・屋久測量においては大船10隻を用意するなど、官民を挙げての協力が行われました。薩摩藩は独自に測量や天体観測などを行っており、藩が提出した国絵図は非常に正確であり、薩摩・大隅国絵図は伊能図と遜色がないほどの精度を有していたそうです。

 さらに、薩摩藩は各郷の風土や名勝地、特産物などを詳細に記した資料として、「麑藩名勝考」や「薩藩名勝志」などを提出していました。これらの資料は地域の特色や文化を伝えるために重要であり、藩が積極的にこれらの情報を提供したものでした。薩摩藩が如何に国防面だけでなく,経済面からも図絵の必要性を考えていたかを示しています。

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