ジョンの死
ジョン・レノンの映画「夢と創造の果てに ジョン・レノン最後の詩」が12月に公開されることを知り,久しぶりに胸が高鳴りました。ジョンが生前,「ヨーコのルーツ鹿児島の税所神社に行ってみたい」と語っていたことをふと思い出し,霧島神宮の境内にある税所神社を訪れました。誰もいない静かな境内で手を合わせながら,遠い日の衝撃と,今も色あせない彼への思いがそっと重なりました。

あの日の衝撃は,私にとって人生で初めて味わう深い喪失感でした。私がジョン・レノンの熱心なファンであることを知っていた兄が,気遣うようにいくつかのスポーツ新聞を買い揃えて立ち寄ってくれました。私はその新聞を手に取るといても立ってもいられず,すぐに友人の家を訪ねました。二人でジョンの楽曲を聴きながら静かに涙を流し,彼の突然の死を悼んだあの夜のことは,今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。
翌日,立ち寄ったどの駅でも,ジョンのLPレコードを小脇に抱えたサラリーマンや,目を腫らした若者たちで溢れていたような感じがしました。周囲の友人たちの間でもその話題で一色となり,ラジオではジョンの曲が終日流され続けていました。まさに世界中の若者が同じ喪失感に包まれていたのだと思います。あの時のような社会現象に出会ったことは,その後経験したことがありません。

2004年,霧島アートの森で開催された「YES オノ・ヨーコ」展を見に行きました。会場でオノ・ヨーコさんは,「鹿児島は私のルーツ」との掲示物がありました。特に英語が堪能であった祖母・小野鶴子(税所篤人の娘)から大きな影響を受けたことが書かれていたことが印象に残っています。また展示室には一台の電話機が置かれ,「オノ・ヨーコさんから電話があるかもしれません」という説明が添えられており,5~6分近くをうろうろしていました。会場全体がヨーコとジョンの世界観に包まれていて,これがジョンの作風にも繋がったと思うと誇らしくなりました。

町中に流れ続けた「スターティング・オーヴァー」
ジョンが残した音楽は今でも輝きを失いませんが,もし生き続けていたなら,どれほどの名曲が生まれていたのだろうかと,その思いは今なお胸の中に残り続けています。1980年12月8日,ジョン・レノンの突然の死を伝えるニュースは瞬時に世界中を駆け巡り,日本でも「スターティング・オーヴァー」が一日中流れていました。そして,その現象は翌年の正月まで続いていました。

税所篤人・霧島神宮宮司
オノ・ヨーコさんの曾祖父である税所篤人氏は,霧島神宮の第四代宮司として明治33年から43年までの11年間務めていました。霧島神宮の境内には,その名を受け継ぐ小さな祠「税所神社」が静かに佇んでいます。ジョンとヨーコ,そしてその一族の歴史が,この地と確かに結ばれていることを感じながら,祠の前で手を合わせました。

ジョン・レノンは,ビートルズが事実上解散した1970年4月10日以前からソロ活動を始めていましたが,本格的なソロアルバムは同年12月11日に発表された『ジョンの魂』からです。その後は毎年のようにアルバムを発表し,どれも高い評価を受ける名作ばかりです。
しかし,1975年の『ロックン・ロール』を最後に,突如として育児を理由に音楽活動を止めてしまいます。当時その生き方や潔さから「何て格好いいんだろう」と思う一方で,もし活動を続けていたなら,この5年間にどれほどの名曲が生まれていたのだろうと思わずにはいられませんでした。
そして5年ぶりの復帰作として1980年11月17日に『ダブル・ファンタジー』が発表されました。再び創作意欲が燃え上がったかのようなアルバムでした。しかし,そのわずか21日後の12月8日(日本時間9日22時ごろ),ジョン・レノンは凶弾に倒れてしまいます。私はその死のショックと共に,未来の名曲たちが一瞬にしてこの世界から失われたことが残念で仕方ありませんでした。
霧島神宮の『神殿大観』
霧島神宮の『神殿大観』によると,明治期から大正期まで鹿児島藩出身の役人が宮司を務めています。このことは廃藩置県後の島津氏にとっても譲れないことの一つでした。
| オノ・ヨーコ氏のルーツが鹿児島に及ぶと語られる背景として,税所氏と薩摩閥との関わりから「霧島神宮宮司職」に繫がったのだろうと考えていました。第3代税所篤が,4代「岡山藩士・税所篤人」を推挙したことの記録はありますが,その理由が不明のままです。何より明治の世になっても,当時薩摩閥或いは税所一族以外で「霧島神宮宮司」になることは考え難いことでした。何せ 税所篤人が歴史上登場するのはこの宮司の時だけです。 たとえば,税所篤人(信篤・元太郎)の和歌の師匠・藤原忠朝(1820~)と薩摩文壇(税所敦子や八田友紀)との関係などを考えても,当時の状況を踏まえても就任することは考えにくく,養子縁組など特別な家系的措置がなければ実現し得なかったはずです。霧島神宮の宮司職は,薩摩にとって,格式と家柄を伴う重要な官職でしたので,大きな謎が残ります。 さらに,篤人の子孫がのちに財界の中枢と結びつき,政略結婚によって高い社会的地位を得た事実も見逃せません。明治期の財閥が,明治政府の官僚(薩摩閥)と婚姻関係を通じて勢力基盤を強化した例は数多くあります。そうした歴史的文脈を踏まえると,政治的背景が存在した可能性を想定せざるを得ません。オノ・ヨーコの先祖の税所氏と鹿児島との縁を見いだす根拠として,曾祖父篤人の霧島神宮・宮司職就任背景やその後の系譜の展開に,なお検証すべき点が多く残されていると感じています。 |

・ 祭神は税所一族の初代篤如
ここで第3代宮司(明治31から3年間)「税所篤(1827~1910,84歳没)」と第4代宮司(明治33年から11年間)「税所篤人(1836~1910,75歳没)」がしばしば混同されますが,第3代の税所篤は,西郷隆盛や大久保利通の先輩にあたり,彼らと並んで薩南の三傑と称された明治政府の薩摩閥の重鎮に当たります。
なお,第4代宮司の税所篤人は岡山藩士の出身で,次の宮司職に推挙したのが宮中顧問官を務めていた第3代宮司職の税所篤でした。もとより税所氏が代々,大隅国の税所・検校職を担ってきた一族の伝統があり,宮司職もまた税所一族によって継承されることが求められていたのでしょう。
税所一族
税所とは,「税の徴収を担った国の役所名」に由来する姓であり,その祖・篤如の出自には諸説あります。多くの武将が藤原姓を名乗ったのは,荘園制度上,藤原北家など有力貴族へ富が流れる仕組みがあり,朝廷に仕える者には藤原流を称することが求められていたからです。
県史料集等によれば,篤如は実際には藤原姓ではなく,桧前姓や大蔵姓と同族とみられます。治安元年(1021)或いは永久4年(1116年)に曽於郡へ配流されたのち,正八幡宮・霧島宮・止上神社の宮司に補され,曽於郡を領し,国分郷橘木城に居して大隅国の税所・検校職を掌り,税所姓を称しました。また,岡山を含む全国の税所氏が通字「篤」を共有するのは,桧前姓一族に起源をもち,鎌倉期以降全国に広がった同族である可能性が残ります。


・霧島神宮の歴代宮司
GHQの思惑
なお,8代以降は,鹿児島藩による独占状態はなくなり,全国神社庁の管轄を通した任命のようです。また戦後,GHQによって「思想,宗教,集会及言論の自由に対する制限」を撤廃し「自由の指令」を公布するに至っています。神道指令を日本政府に命じ,神祇院の廃止がされ,「宗教団体法」が廃止されたことで,出身門地に関わらず,神官が登用されるようになりました。

・ 神社本庁
GHQはとにかく神社の勢力を止めることが最大の目的でした。ところで,4代の税所篤人の岡山藩士というのが気にかかります。もちろん宮中顧問官を兼務していた第3代の税所篤氏による強い推挙があったのですが,薩摩藩以来,霧島神宮の所管は鹿児島県にとって重要な案件でした。
荘園役所の「税所」
もともと税所姓は,全国の荘園に設置された「税所」と呼ばれる役所名に由来する氏です。そして,鎌倉期以降になると,その一族が正八幡宮や霧島神宮の宮司職に補任され,大隅国における税所・検校の職務を掌るようになります。また,岡山藩をはじめとする中国地方に見られる税所(穝所)一族は,「経」や「元」の字を通字として用いることが知られています。「篤」の通字の使用する場合は大隅国の税所氏から分かれた一族である可能性が高いと考えられます。確認のためには少なくとも室町期まで遡る必要がありそうですので,今後も調査・研究を続けたいと思います。
ジョン降臨

・ 参拝後の帰り道で,霧島神宮参道にかかる夕日の写真をとる人たちが何人もいました。その中に,「アビーロードの真似」をして写真を撮る人たちがいました。その光景を急いで撮ろうとしましたが,残念ながら撮れませんでしたが3枚目がその後の写真になります。その人たちもそこにジョンがいるような感じがしたのでしょうか。
