一番の人気スポーツは野球
私たちの世代にとって,野球は一番の人気スポーツでした。『巨人の星』が少年マガジンで連載されていた影響も大きく,放課後になれば私たちは,近くの公園で三角ベースに夢中になって遊んでいました。あの頃の公園には「ボール遊び禁止」などという看板はなく,子どもたちが思いきり駆け回れる自由な空間が広がっていました。公園には暗黙のルールがあり,上級生ほど優先的に公園を使う権利がありました。私たちは上級生のいない公園を探しては野球をし,6年生になってようやく思う存分公園を使えるようになったのです。

・ V9のメンバーと黒江選手
「V9」時代の黒江選手
当時,サッカーをする子は余りおらず,野球の他にはバレーボールや水泳,あるいは空手や剣道などの武道を習う子が少しいる程度でした。また当時のプロ野球では読売ジャイアンツが「V9」と呼ばれる黄金時代で,王選手や長嶋選手はまさに子どもたちの憧れの的でした。
私のクラスでも野球人気は絶大でした。その理由のひとつは,巨人軍「V9」メンバーの黒江選手(鹿児島高校出身)の親戚(甥?)が同じクラスにいたことでした。彼を中心に三角ベースチームが結成され,毎週のように他のクラスと対抗試合を行うほどの盛り上がりを見せていました。
定岡投手を擁する鹿児島実業
中学・高校時代,私は友人に誘われてさまざまなスポーツに挑戦しましたが,あまり夢中なることもなく上達しませんでした。その時の友人の中には実業高校のライバル校の鹿児島商業野球部のレギュラーもいましたので何度となく応援にもいきました。彼には野球の華々しい経歴はありませんでしたが,大学の硬式野球部まで本格的に取り組んでいました。

当時,定岡投手を擁する鹿児島実業が甲子園へ出場し,県内は大いに沸き立ちました。私もラジオで胸を躍らせながら応援していましたが,準決勝でテレビをつけた途端,まるで呪われたかのようにチームは苦戦し負けしてしまったのです。それ以来,「自分がテレビを観て応援すると負ける」という妙なジンクスが心に刻まれてしまいました。
その後もその「定岡ジンクス」は消えることなく,巨人ファンだった頃も,私がテレビをつけた途端に相手チームに点が入り,結果的に敗れることが非常に多かったのです。
日米野球
野球人気が最高潮にあったあの頃,数年おきに開催される日米野球は,子どもたちにとって大きな楽しみでした。テレビの前で固唾をのんで応援したあの時間は,今も鮮明に思い出されます。中でも昭和49年,ハンク・アーロンと王貞治によるホームラン競争は,今でも記憶に焼き付いています。テレビの前で手に汗を握り,その一打,一打を見守りました。

しかし,やはり日米野球における実力の差はあまりにも明らかでした。打球の勢い,守備の迫力,走塁のスピード,すべてにおいてアメリカ選手との差が歴然としていました。他のスポーツでは,体格の劣る日本人選手が世界で活躍しているのに,また野球選手としてのキャリアは変わらないのに,なぜこれほど差があるのだろうか。その疑問がずっと引っかかっていました。
体格や筋力の差だけではない「何か」があるように思えてなりませんでした。それが技術なのか,野球という文化の成熟度の違いなのか,それとも勝負にかける覚悟やプライドなのか。答えは見つからず,もやもやした思いを抱え続けていました。
今回のワールドシリーズで見せた大谷選手や山本選手の内に秘めた野球への思いや姿勢がその答えだったのでしょう。彼らの中にある技術やチームプレイの精神,野球への姿勢こそ,かつて私が感じた「差」だったのだろうと思いました。
ピート・ローズ率いるレッズ
昭和53年,学生だった私は後楽園球場の近くに住んでいました。お金のない学生生活でしたが,せめて球場の雰囲気だけでも味わいたいと,日米野球の初日に球場に足を運びました。巨人軍の相手は,ピート・ローズ率いるシンシナティ・レッズで,球場の周囲は熱気に包まれていました。
中には入れませんでしたが,外にいても歓声が体中に響いてきました。近くの店のラジオから,中畑清選手が劇的な逆転ホームランを放ったという中継が流れ,次の瞬間,地鳴りのような歓声が球場全体から球場の外まで包み込みました。

その日の試合は巨人軍の勝利。メジャーリーガーたちは「旅行気分で来日している」と言われていましたが,それでも世界一のチームに勝ったことは,日本野球にとって誇らしい出来事でした。球場の外でその歓声を聞きながら,国際試合で勝つことの喜びと,野球というスポーツの持つ力を深く感じたのです。
日本人選手の活躍
私も多くの人と同じように,平成7年に野茂英雄投手がドジャースに入団して以来,メジャーリーグを熱心に見るようになりました。独特のトルネード投法で世界の強打者を次々とねじ伏せる姿は,まさに衝撃でした。その後,イチローや松井秀喜といったスター選手が次々にメジャーで活躍し始めると,いつの間にか日本のプロ野球への関心は薄れ,自然とメジャー中継ばかりを観るようになりました。そして大谷翔平選手が登場し,「二刀流」で結果を残すようになると,もはや毎日の試合結果が気になって仕方なくなりました。投げても打っても世界最高レベル,その姿は「理想の野球選手」そのものでした。

ワールドシリーズ
今回のワールドシリーズでは,ドジャースがポストシーズンを圧倒的な強さで勝ち上がり,3チームを相手に9勝1敗という見事な戦績を残しました。戦力を活かしながら戦い抜いた印象がありました。一方,ブルージェイズを見ているとその戦力は確かにドジャースよりも上であるように思いましたが,試合を諦めない粘りや勢いの面でドジャースに一歩及ばなかったように思います。
そして迎えたワールドシリーズでの18回に及ぶ死闘の末,勝利の女神は完全にドジャースに微笑みました。私には,その「勝利の神様」は,大谷選手がメジャーに渡ったときから,ずっと彼のそばにいたように思えます。対戦相手の監督や選手たちは,二刀流の存在をあまりにも意識しすぎて,かえって自分たちの力を出し切れなかったのではないでしょうか。確かに,あの圧倒的な存在感を前にすれば誰もが萎縮してしまうのも無理はありません。

しかし,プロである以上,野球の主役は常に「観客」であるはずです。観客を楽しませることを忘れ,敬遠や慎重策ばかりが続けば,野球の神様もさすがにそっぽを向いてしまったのかもしれません。
今回のワールドシリーズでは,その勝利の女神が大谷選手から山本由伸投手のもとへも舞い降りたように感じました。白熱した試合の中で,彼の一球一球の投球を見ていると,改めて「野球の神様」という目に見えない存在を感じずにはいられませんでした。野球とは,単なる勝ち負けを超えた「人間の物語」であり,運や偶然すら味方にし,そして人々の情熱が織りなすドラマなのだと強く思いました。
野球の神様が降りた夜
今回のワールドシリーズでも,私は例によって「定岡ジンクス」に悩まされていました。テレビをつけると決まってホームランを打たれ,慌ててテレビを消す~そんなことを何度も繰り返していたのです。そのたびに妻は落ち着いて観戦を続け,味方が点を入れると「今,点が入ったよ!」とわざわざ呼びに来てくれました。
しかし,最終戦の終盤,ドジャースが劣勢に立たされた時は,さすがの妻も疲れたようで,「もう消そうか」とリモコンを置きました。しばらく沈黙が続いた後,私たちは顔を見合わせ,「このままではいけないね」と話し合い,おそるおそるテレビをつけました。すると,そこには信じられない光景が広がっていました。まるで野球の神様が降りてきたかのような奇跡的な攻守の連続。そして最後には,ヤマモーロ(山本投手)がチームメイトにもみくちゃにされながら歓喜の輪の中にいました。
その瞬間,私たちも思わず立ち上がって喜びました。あのシーンを何度観ても,「やはり野球の神様は本当にいる」のだと心から感じました。

試合後のシャンパンファイトを見て,私たちは以前に買っておいた一本のシャンパンを開け,世界一の瞬間をドジャースと一緒に祝いながらゆっくりと味わいました。
都城高校

・市役所の懸垂幕
その余韻が残る数日後,私は初めて都城高校を訪れました。校内にはまだ横断幕や垂れ幕は見当たりませんでしたが,市役所には「㊗ロサンゼルス・ドジャース 山本由伸投手 MVP 感動をありがとう!」という懸垂幕が掲げられていました。世界一のピッチャーを育てたことは,都城市,そして都城高校の誇りであり続けるでしょうね。都城高校のグランドで目を細めると「野球の神様」が見えますよ。ぜひ一度伺ってみてください。


・都城高校とグランド
