日本一のマンモス校,鹿児島市立城西中学校【R5】10月1号

(1) 高校の学区制について

 戦後の高校は基本的には住所に基づく「学区制」でした。昭和30年代から実際には鶴丸・甲南では下宿組が多く占めていました。また「名門大学入学」への地方からの教育熱は凄まじく,中学校(小学校高学年)から対策を講じるようになっていました。当時有名な進学高が少なかった(?)宮崎県からも,越境入学組(下宿)がいたほどです。

 昭和40年代,鶴丸・甲南・中央・玉龍の市内四校に入学させるため,鹿児島市中心部の中学校は離島を含め地方からの転入生が多く,学校規模が膨れ上がりました。特に,日本復帰して間もない奄美大島出身者の保護者が,城西中学校から鶴丸高校への進学を望み,子どもを西田・原良小学校へ通わせました。理由として親元を離れ,離島から高校生と中学生の兄弟を同時に通わせるためでもありました。また,私立高校の場合は,城西中校区に生徒数日本一の鹿児島高校や男子高日本一の実業高校,照国高校があり市内随一の文教地区と言われていました。

 地方出身の優秀な児童・生徒が集まっており,当時鶴丸高校の合格者の半分が城西中学校(60学級,3000人を超えるマンモス中学校)であったからでした。教職員数も100人を超え,全体の職員会議は職員室(各学年室)で行えず,図書室で行っていたようです。日本一のマンモス校であったため勉学のみならず,スポーツでも県下の大会を独占していました。当時スポーツに力を入れていた近くのライバル中学校の校長先生が,「何で城西ばかり優勝して,こん学校は一つも取れんのか」と全職員を集めて怒鳴り散らしたというエピソードを聞いたことがあります。

・門扉も無かった40年代の城西中

  地方の医者や社長など我が子を国立大学医学部へ入学させたい保護者がたくさんいました。ラサールなど有名私立校は無理でも,何とか偏差値の高い鹿児島市内の公立高校を希望していました。当時,地方の中学校からの市内の県立高校への入学は学区制のため受験(今は10%枠で可能)できなかったのです。そこで下宿或いは母親と二人住まいで城西中学校に入学させるため,西田や原良小学校に高学年から通わせていました。西田小校区には兼業で下宿を営む家が多く,学級の4~5名が地方出身者で下宿組だった時期もあったようです。地方に住む親たちは我が子をいきなり城西中学校1年生(徐々に審査が厳しくなり)から入れるのでなく,環境に慣れさせるため小学校高学年から通わせていたようです。

 その結果,西田小(草牟田小)から分かれた原良小学校が日本一の児童数に,原良小から分かれた明和小学校(原良団地新設校)が日本一に,明和小(原良・西田小)から分かれた武岡小学校(武岡団地新設校)が日本一になったと記憶しています(要確認)。東京大学(国立大学医学部)合格者数ランキングにラサールが火をつけ,鶴丸・甲南を有した鹿児島県が全国有数の教育県と言われた時代がありました。他の中学校区にはあまり無かった時代,受験対策の学習塾・家庭教師,下宿の数多さなど一連の受験戦争の波に飲み込まれた城西中学校だったのです。現在は生徒数も適正規模になり普通の公立中学校になりました。公立学校の教員は当然副業禁止です。しかし戦後しばらくは教員の兼業(家庭教師)について余り厳格ではありませんでした。昭和30年代後半になると家庭教師や塾をしていた先生は処分の対象になりました。後に私立高校を創設した先生が学級担任としてこの中の小学校に在籍していました。

(2) 産休時の代替教員のこと 

 当時は産休時の代替教員がすぐ配置される制度(産休代替法はあったが,実際には代替教員が配置されない事例が続出)がなく,年度途中に産休に入った場合,その学級の児童を他の学級へ均等に分けていくのです。6年生の二学期に入り,児童数がいっきに10名近く増え,一時期廊下で授業を受けた経験があります(廊下に席があった者は,昼休みの遊び場確保の係でした)。その後,母親たちが若い女性教員を6年生の担任にさせるなと苦情があったそうです。この頃から教育熱心な保護者の過剰な言動が学校に寄せられるようになりました。

・三千人を超すマンモス校の全校朝会

(3) 鹿児島県の教育格差について

 鹿児島県は離島をはじめ地方と鹿児島市との教育格差が大きいと言われています。各教育事務所は,この事を最重要事項として学力向上に取り組んでいます。その理由として,地理的な要因や子どもたちの基礎学力の低下,保護者の教育に対する考え方の他,教育施設や学習塾,家庭教師の数なども考えられます。そもそも格差や差別を生む鹿児島市と地方の歴史的要因の一つが,江戸期の藩の「掛持地頭・居地頭」の制度にあると言われています。

 江戸初期までは,領主が地元に住みその土地を守ると言う意味では,城下と地方の武士階級は対等な関係でした。戦のない江戸初期の1657年,長島と甑島以外の領主や地頭を鹿児島に住まわせる掛持地頭制度(ある意味参勤交代的なもの?)になって以来,城下士と地方の郷士に上下関係があらわれ,待遇(給与)・予算面等にも差が出てきたようです。

 その結果,城下士が郷士を見下すようになり,鹿児島市に住む住民も地方出身者を蔑むようになったようです。このことは離島や半島が少ない他の県ではあまり見られない事象のようです。

 さらに,鹿児島市内においても甲突川を堀と考えると,その外側と内側では待遇が全く違っていました。内側にはいわゆる上級武士の千石取りが集まった東・西千石町などと川西(堀の外側)の西田の商人町では扱いも当然差がありました。

 この伝統は学校教育でも同じように残っていました。大正2年の鹿児島一中の移転問題が決着し,山下町から薬師町に移転してきた後,当時の校長が自殺した事件がありました。その理由が,新校舎が城下(現中央高校の場所)ではなく,掘り外側の薬師町に移転されたことだったと噂されました。どうしてそんな事ぐらいで死ぬのという意見と鶴丸だから鶴丸城近くに作って欲しかったと言う意見も少数ながらあったそうです。

 また,内堀の鶴丸城近くにある名山小学校や山下小学校,甲東中学校などの校長職は県教委次長からの拝命も多く,昭和50年代までは市内の県立高校の校長と同じ位の扱いであったと言われています。今ではこのようなことはありませんが,当時の学校関係者は色々な伝統やしがらみの中で教育活動を行っていたのですね。

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