七里田温泉の今昔物語「今は昔の戦国時代」より【R5】11月3号

■ 初めて七里田温泉の下湯を訪れ,足湯にいらした地元の方のお話しを聞くことができました。地域の人たちがこの温泉をいかに大切にしているかお話の随所に伺えました。次の長湯温泉に向かう途中,朽網鎮則(宗暦)の墓地に立ち寄りました。奥豊後グリーンロードから大船山の方向に少し入った山の入り口に墓地(山野城の南西で菩提寺岳麓寺跡近くの高畑)がありました。朽網宗暦の墓の案内板から少し登ると綺麗に管理され墓がありました。直ぐに宗暦が地域の方に慕われていたか分かりました。

 中世に記された宗暦の教訓状に「温泉はここの宝なので,土地の決めごとを守って修理や掃除など怠りのないよう申しつけなさい。」と決りを定めてあるそうです。また,温泉の守り本尊として下湯の敷地内に湯の本尊の「六地蔵」が残っています。江戸期に入るとお茶屋を建て,藩主専用の浴槽とは別に庶民も利用していたそうです。

・下湯の六地蔵塔

 鎌倉時代から戦国時代にかけて,この地を治めていた朽網氏(くたみ)は,山野城(やまんじょう)にいました。しかし,日頃の住まいは七里田温泉の近くにあったようです。「救民記(くたみき)」によると,山野城の最後の城主・朽網鎮則(しげのり)は中須の館に居て,弟の式部大夫則繁(のりしげ)は湯の上へ,その弟の則勝は小路(仏原)に住んでいたそうです。また,菩提寺は岳麓寺にあり,氏神は市の嵯峨宮にありました。 湯の本尊の「六地蔵」は朽網鎮則が永禄4年(1561)西蓮寺の一作法印に刻ませたものだと言い伝えられています。1577年には父・宗暦が息子の鎮則へ「出湯の儀在所の」飾りに候間法式修理掃除以下無緩可被申付事 云々」と言う教訓状を与えています。朽網の領主が代々,この七里田温泉を大切に扱っていたことがよく分かります。
今昔物語「今は昔の戦国時代」より

・宗暦の墓

・下湯の六地蔵塔

・ 墓の案内板によると,「1586年,島津氏の豊後国侵攻に当たって,朽網鎮則は山野城に拠って戦いましたが,島津勢(新納忠元)の猛攻を支えきれずと判断した鎮則は猛烈な合戦の後,退去し自刃しました。その後,豊後国主・大友義統は,先の合戦において島津氏に降伏したという理由により朽網郷を閉所とし,山野城は廃城となりました。」と説明がありました。

・ 豊薩合戦(1578年10月~1587年4月)~延べ8年6月間の戦い~

・ 当初大友氏と島津氏との関係は良好で,お互いに干渉しないほぼ同盟関係にあったようです。明との交易において船舶の安全上でお互いの関係が重要であったからでした。1577年、島津氏は元来の領土である日向国を回復すべく日向の伊東義祐を攻め,伊東氏は撤退し大友氏に身を寄せました。1578年10月、大友宗麟は伊東氏の要請を受けて大軍を率いて南下し,日向から豊後を舞台に多くの長い戦いが始まるのです。
 「耳川の戦い」(大友家臣の離反・領内で反乱勃発) ・「沖田畷の戦い」・「阿蘇合戦」・「岩屋城の戦い」・「丹生島城、臼杵城の戦い」・「戸次川の戦い」・「山野城・三船城の戦い」・「府内城の戦い」・「龍王城、松ヶ尾城の戦い」・「鶴崎城の戦い」・「船ヶ尾城・繁美城の戦い」・「日出城の戦い」・「角牟礼城の戦い」・「日出生城の戦い」・「朝日岳城・栂牟礼城(とがむれ)の戦い」 

 秀吉の九州平定が始まった際、大友義統は島津に降伏した者の討伐を始めています。鎮則は、大分市乙津で追手に包囲され、切腹入水したそうです。こういう話を聞くと,戦国の習いとは言え残酷なことだと思います。これらの一連の戦を調べていくとお互いに犠牲者を少なくする上で,別の策も取れたのではないでしょうか?また,鹿児島にも島津氏による六地蔵塔が数多く現存しています。同じ六地蔵塔なのに薩摩(敵味方供養塔)と豊後(領民を癒す湯の本尊)では,建立の経緯が異なりまいが,お互いに神仏に頼ろうとする心があったのですね。

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