万得領(薩摩国の鹿児島神宮領) ~日置市飯牟礼の統治の歴史~《R5》12月6号

惟宗(執印)行賢の万得領

 平安時代、平季基が土地を開墾し、その土地を近衛家に寄進したことが、日本最大の島津荘の起源です。1026年からは、この地方の荘官として治め、後には平季基の娘婿である伴兼貞(肝付氏)に譲渡されました。 飯牟礼の地名は、古くは平安末期にさかのぼります。当時、大隅国北部から薩摩国北部にかけての広い地域には、現在の鹿児島神宮の神社領である「万得領」が存在していました。この領地は、1087年に大隅国司として赴任してきた惟宗朝臣という人の息子である執印行賢(万得)が、大隅正八幡宮の執印職(神職筆頭)として広めたものであり、飯牟礼もこの社領の一部でした。

・ 大隅正八幡宮(隼人鹿児島神宮)    

・ 大隅国図田帳(1197年)

 大隅国図田帳(鎌倉幕府作成の土地台帳)には「飯牟礼三町万得」と記載されており、これは大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の万得領(神社領)でした。伊集院は薩摩国に位置し、元々は川内の新田八幡宮に帰属し,初期においては新田八幡宮とも共存していました。

 ところが、平安末期には薩摩国内で源為朝の子である豊後冠者義実の乱などが発生し、領地が荒廃しました。この状況下で、年貢の確保を目的として薩摩国衙や島津荘園勢力、新田八幡宮が対立するようになりました。薩摩国衙の役人である郡司や院司たちは、地域の労働力を動員して田畑を開墾し、その力を強めて新たな豪族となりました。そして、自らの領地の安泰を図るために最も勢力を有する大隅国正八幡宮に寄進し、その領地を「万得領」と呼びました。 荘園の年貢は他の地域よりも少なく、寄郡(税を領家と国司に半分ずつ納める)という手法が採用され、これが薩摩・大隅地域に特有のやり方でした。こうして、日本一の巨大な荘園である島津荘が形成され、国司や他の勢力からの防衛が図られたのです。  

阿多忠景と為朝

 1140年から1160年までの期間、薩摩平氏の指導者である阿多忠景は、中国との交易により巨額の財を築き、日置郡全域で勢力を持っていました。史料が限られており、伝説的な要素が多い部分もありますが、薩摩・大隅・日向の地域も傘下におき,その勢力は南九州全体に及んでいたようです。また、忠景は自らの娘を源為朝に嫁がせたという伝承もあり、これが恋之原の為朝伝説や琉球征服の伝説と関連している可能性も考えられます。

・為朝松之跡

紀六太夫正家(伊集院郷郡司職)

 1197年の薩摩国図田帳によれば、この時の万得領の名主は紀六太夫正家という人物で、伊集院郷の郡司職を兼務し、飯牟礼、土橋、神殿、大田などを直接治めていました。紀正家は新田八幡宮の神宮司職を務め、正八幡宮勢力や島津庄と争い、伊集院郷の多くが本来の薩摩国に戻ってきたことが分かります。この時期の勢力関係は、薩摩国司や大隅国司、川内の新田八幡宮、隼人の大隅正八幡宮、島津荘の島津一族などが対立していました。同族の惟宗氏(島津氏・執印氏)が執印・宮司職、大隅国、薩摩国の要職を務めており、同族同士で対立していたことになります。これは南九州において、広大な荘園を所有していた近衛家の家臣団一族として惟宗氏が下向・在地した結果と考えられます。 鎌倉時代に入ると、幕府の影響が及ぶようになり、惟宗氏は頼朝の関東侍の勢力に組み入れられ、自領地の安全確保と共に他の領有権も主張し、争うようになりました。

紀姓伊集院氏

 紀姓伊集院氏(①能成-②昌成-③成恒-④貞恒-⑤貞時-⑥時清-⑦時信-⑧清実-⑨時忠)は、古伊集院氏と新伊集院氏の二つの系統に分かれます。平安末期から鎌倉時代にかけて郡司職を務めていた伊集院氏を「紀姓伊集院氏(古伊集院家)」と呼び、土佐日記で有名な歌人である紀貫之の子孫とされています。1026年(平安後期)、初代の紀太夫能成は伊集院郡司として伊集院郡に赴任し、土地の名前に因んで伊集院氏を名乗りました。1190年には、6代目の紀四郎時清が一宇治城を築き、その後4代にわたって、1320年までの130年にわたり、九代時忠までがここに住んでいました。

島津姓伊集院氏

 島津姓伊集院氏(※俊忠-①久兼-②久親-③忠親-④忠国-⑤久氏-⑥頼久-⑦熙久)

 1185年、島津忠久は島津庄の下司職に任命され、その孫の代に薩摩に赴任してきました。島津2代忠時の7男である忠経の子や孫が、伊集院氏や飯牟礼氏、町田氏などといった島津家の分家として、伊集院や石谷一帯に分かれていきました。紀姓伊集院氏が滅亡した後は、島津氏一族の伊集院久兼が城主となり、伊集院氏を名乗り(新伊集院家)として、その後も七代にわたり続きました。しかし、1450年、5代忠国の曾孫である熙久の時に、島津9代忠国によって一宇治城が攻撃され、伊集院氏は滅亡しました。

※  新伊集院氏発祥の地,古城

 鎌倉末期の1275年頃、島津3代久経は甥である島津侍従房俊忠の還俗(僧侶から俗人に戻る)のために、古城村を与え、並松に住まわせました。その後、内城や平城、松ヶ城などの強固な城を築いて居城としました。俊忠の子である久兼は、紀姓伊集院氏が断絶した1280年代に、古城から一宇治城に移り、伊集院氏を名乗って伊集院郷を治めました。別の説によれば、この時期は4代忠国の時であるとされています。 また、島津2代の忠光の庶長子である光宗は、飯牟礼の熊野神社一帯に住み、飯牟礼氏を名乗りました。やがて光宗は出家して紀伊国に滞留し、後に還俗しました。子の光秋は、紀伊国(和歌山県)から熊野権現の御神体を持ち帰り、飯牟礼嶽(諸正岳の頂上から少し下った窪み)に安置し、尊び崇めました。飯牟礼氏が野田村(妙円寺団地入口)に移る際、御神体も移されましたが、不吉な出来事が発生したため、鎌倉中期に分霊され、飯牟礼に熊野権現が創建されました。

・ 広済寺跡(徳重神社隣り)

・ 古城~平城の切通

※ 鹿児島学問の発祥の地,古城の円勝寺

 忠国の時代には、彼は島津宗家を凌駕するほどの勢力を築き上げ、また学問も栄えました。忠国の子である南仲景周和尚は臨済宗の総本山、京都南禅寺で学び、古城に古城山円勝寺(古寺)を建てましたが、場所が狭くなり、1363年には徳重神社近くに新たに広済寺を建てました。この寺は南禅寺派の薩摩総本山であり、学問寺として有名で、薩摩半島で最も文教寺院として知られ、多くの学才が集まり繁栄しました。石屋禅師も若い頃はこの寺で、兄である南仲景周禅師のもとで学び、後に妙円寺、福昌寺、深固院などを建て、全国的に有名になりました。(後に桂庵玄寿が薩摩にやってくる一つの目的でもありました) 伊集院忠国は1340年8月に、島津5代貞久が帰国して南朝方を攻撃すると、忠国は一宇治城を放棄し、古城の平城へ逃亡しました。1341年、貞久は伊集院忠国が守る古城の平城を攻めましたが、忠国は奮戦し、貞久を撃退しました。

島津宗家の直轄地

 1450年、島津9代の忠国は伊集院一族を追放し、伊集院は島津宗家の直轄下に組み込まれました。忠良はこの城を島津宗家から与えられ、伊作城から移り、5年間にわたってここを居城としました。しかし、1550年に鹿児島内城に移った後、伊集院城は廃城となり、地頭の直轄地となりました。また,忠良の子,貴久は幼少期から仕え、多くの戦いで戦功を挙げた木脇炊介祐兄(すけよし)に、恩賞として恋之原の地などを与えました。

日置島津氏(お狩場)

 日置島津氏は貴久の3男で、「金吾様」の愛称で親しまれた歳久が初代に当たります。歳久は豊臣秀吉の逆鱗に触れ、自害させられましたが、その孫の代に日吉地域北部を領有し、日置島津家を興しました。1724年、7代久健の時、知覧郷西別府の領有地と近くの飯牟礼村と取り替えてほしいと藩に願い出たところ、許可され、飯牟礼村は日置島津氏の領地となりました。その際、家来も移され、飯牟礼や古城は日置島津氏の狩場となり、馬場は弓や鉄砲の調練の場として使われました。調練場でしたので,さつま芋の栽培など開墾が許されないまま幕末まで続きました。飯牟礼下に狩集の地名が残っていますが,鷹狩りで地元の勢子(獲物を追い出す農民)が借り出され集まった場所です。日置家当主や郷士たちは馬場(旧飯牟礼小学校跡地近く)に集まり,両方から挟み撃ちで狩りを行っていました。日置島津氏の菩提寺は日吉町の大乗寺(日置南洲窯横)になります。

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