与謝野鉄幹の父が僧侶として鹿児島にやってきた時代
昭和4年,与謝野晶子夫妻は旅の目的の一つとして,加治木の性応寺を訪れました。当時56歳だった鉄幹にとって,これは実に47年ぶりの訪問でした。その6年後,昭和10年に鉄幹は62歳で亡くなります。性応寺に赴いた鉄幹は,9歳のとき,自ら植えた「たぶ」の木を目にし,次の歌を詠みました。
・「老の身の 相見て嬉し をさなくて 加治木の寺に 植えしたぶの木(鉄幹)」
碑の裏面には,「加治木へは 来るにあらず 帰るなり 父と住みける 思い出のため」という歌も刻まれ,鉄幹の心の原風景を偲ばせる内容でした。
また,晶子は加治木の性応寺から見える美しい五老峰を眺め,次の歌を詠みました。
・「加治木なる 五つの峰の 波形の 女めくこそ あはれなりけり(晶子)」
「あはれなりけり」には,悲しい・哀れだと浮かびますますが,用法によっては,心引かれる・素晴らしいなどの意味もあります。晶子のこの歌の意味は「加治木にある五嶺の稜線が女性らしい姿のように見え,何と美しいのでしょう」のような意味なのでしょう。
また,加治木風土記には,晶子が詠んだ「五つの峰」について,「明治のころには美しい五つ嶺が連なっていた山を五老峰という」と記されています。この五老峰の一つが湯湾岳(岩ノ嶽)で,昭和23年に始まった砕石事業によって採石場となったそうです。加治木町の国道10号線から無残な姿が見えますが,そのたびにため息がでます。稜線が壊され,岩肌がむき出しになり,湯湾岳に続く景観も失われ,多くの人がその変わり果てた姿を嘆いているでしょう。ましてや与謝野鉄幹がこの姿を見たら,悲しくなり「哀れなりけり」と思うことでしょう……知らんけど。
ところで,鉄幹の父はなぜ加治木の地にやってきたのでしょう。
薩摩の隠れ念仏
薩摩の地に一向宗(浄土真宗)が伝わったのは,室町時代中期とされています。「すべての人々は阿弥陀如来の前では平等であり尊い」という教えは,島津氏にとって到底受け入れがたく,厳しく禁止されていました。島津氏が一向宗を厳しく禁止した理由の一つに,獅子島の幣串や湯之口の一向宗漁師たちが秀吉の水軍の道案内をしたとか,出水や長島の門徒を船に乗せて天草や水俣のお寺(隠れ部屋)に連れて行ったからとかいうことも言われています。
神仏分離令(明治元年)
薩摩藩では1597年から,明治9年の信仰の自由令が出されるまでの279年間にわたり,一向宗の信仰者に対する厳しい弾圧が行われていました。
その理由の一つとして特に1597年の慶長の役の講和交渉が決裂し,戦争再開により多くの成人男性が出陣する必要が生じたため,留守中の治安維持や青少年教育の一環として郷中教育の実施と,一揆撲滅のため一向宗の禁制が強化されたと言われています。
厳しい弾圧の中,一向宗の信仰者たちは伊勢講や霧島講,山伏や漁民に成りすますなどして密かに信仰を守り続け,「隠れ念仏」として地下に潜伏して活動しました。拷問や死罪など過酷な弾圧が続く中でも,信者たちは山奥の洞窟や船で沖に出て念仏を唱えました。こうした信仰活動が「隠れキリシタン」から派生した言い方で「隠れ念仏」と呼ばれるようになりました。
信仰の自由(明治9年)と西南戦争
念仏禁制が解かれたのは明治9年9月5日でしたが,西南戦争に至る不穏な時期と重なり,県外からの布教者はスパイ疑惑などもあり,県内の復興は遅れました。県内には花尾をはじめ多くの隠れ念仏洞が残っています。当時の藩の役人も取締りに躍起になり,住民たちは秘密を守るため子どもたちには山に入らないよう厳しく教えられました。
・花尾の隠れ念仏洞
薩摩の廃仏毀釈
鹿児島での廃仏毀釈は全国でも特に激しく,ほとんどすべての寺院が破壊され,僧侶も還俗させられました。貴重な仏像の多くが破壊され,西南戦争後,まず寺院の再建が必要でした。しかし長年の隠れ念仏迫害の無念から,本願寺派の鹿児島での復興への執念は凄まじく支援は熱心に行われ,多くの僧侶が派遣されました。
与謝野鉄幹の父が派遣された時期
与謝野鉄幹の父が派遣されたのは,そういう時期だったのです。鹿児島に赴任し,小学生の鉄幹も鹿児島や加治木(名山小と柁城小)で1年余りを過ごしました。明治14年に鉄幹の父は,本願寺鹿児島別院の移転先となった加治木説教所(性応寺)に赴任し,立上げに尽力しました。その後明治26年,松原地区の住民500戸によって鹿児島別院松原説教所が建立され,明治35年には性応寺松原出張所が設けられ,当寺住職たちが布教を続けました。
※ 隠れ念仏や廃仏毀釈で長い間,傷ついていた寺院と薩摩の民を救うためにやってきたのでした。