中央駅近くにあった「原羅営・武岡城・谷峰城・茶臼城」跡

 鹿児島の歴史において,戦が多かった時代の一つが南北朝時代でした。この時期には多くの城や砦が築かれましたが,現在では破却され,その多くが知る人も少なく忘れられています。

南北朝時代の城跡

 前回,八田友紀で「桃が岡(谷峰城)」について触れ,鎌倉時代後期から南北朝時代(1300年代中頃)にかけて,島津貞久と肝属兼重との合戦,また島津貞久と鮫島彦次郎入道との合戦が行われた古戦場であり,今も空堀や土塁が残っていることを紹介しました。

 今回近くに,同時代に築かれた3つの砦・城跡がありますので,合わせてご紹介いたします。現在,住宅地や山林に埋もれ,その痕跡さえもほとんど残っていないため,特定が難しい面もありますことをご了承ください。今回ご紹介するのは,中央駅から直線で800メートルから1700メートル圏内にある,原良,常盤,武にあった各城跡です。

 鎌倉時代末期の混乱の中で,二つの朝廷が並立し争う南北朝の動乱(1333~92)が始まりました。この時期,薩摩の地でも両陣営の激しい戦いが繰り広げられました。また,日向に下向した畠山直顕は,日向国守護に任命され,大隅侵入を企てるなど,薩摩国は戦火に巻き込まれていったのです。
 南北朝が終結し,皇統が合一した応永年間(1394年)に入っても,今川了俊は島津討伐を執拗に命じ,ついに幕府による「両島津討伐の御教書」を通達するに至りました。しかし,南北朝の皇統が統一されたことにより,島津氏は命拾いをします。時の運が味方したのです。その後,幕府の権力が衰退すると,薩摩国内では内訌が勃発します。北薩の渋谷氏,大隅の肝付氏,島津一族の伊集院氏など,地域の有力勢力との激しい争いが続き,最終的に島津氏が三州を統一するに至ったのです。
 この時代の山城は簡易な砦のようなものでしたが,当時の歴史を語る上で極めて貴重なものです。

原羅営・武岡城・谷峰城・茶臼城

❶ 原羅営 
 原良町字源六ケ入口他 尾畔 郭・空堀・土塁・水の手 貞和2年(1346)~応安2年(1369)~応永20年(1413)  畠山氏・伊集院氏 
※ 原良という地名は,甲突川沿いの原良小辺りをイメージするかもしれませんが,実際には原良四丁目付近から尾畔(照国高校のグランド)にあった「原羅営」がその由来だと言われています。「原羅」の場合,「原の中に網を張り巡らす」という意味があるとされています。その後,この地域が原良川沿いの原野となり,「野良」と同じ意味の「野原」から,次第に「原良」という名前に変わったようです。
❷ 野元営(野元武岡城) 
 南北朝時代~正平9年(1355) 武町字城本。畠山氏 この武岡城(新幹線トンネル)の二つの曲輪を削った切岸は敵が這い上がってくるのを防いでおり,今でもはっきり分かります。戦時中この切岸の下部に何カ所も洞穴をほり,弾薬庫や指令室にしていました。
❸ 谷峰城 
 常盤町字二之迫 興国2年(1341)~正平7年(1353) 肝付氏・鮫島氏
❹ 茶麿塁(ちゃまがるい)・茶臼城 
 武町三重尾崎 南北朝時代 畠山氏   
 田上川に削られ,形状が茶臼に似ていて末広がりの形の山だったので茶麿塁・茶臼城の名にしたのでしょう。今では傾斜地を削り田上1丁目の住宅地になっています。  

野元武岡城

殉國祠堂

・「殉國祠堂」戦時中この高台は,高射砲が設置してあり,監視者が駐在しいていました。その際戦死した殉死者を供養する祠の残骸が残っています。

・ 「殉國祠堂」近くから見た西田小・鶴丸・鹿児島高校と城山

 こんな身近に「歴史的な遺構」が残っているのですね。先人たちの足跡を訪ねてみてはいかがでしょうか。

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