伊敷地区の地名(1)【R5】7月8号

宇都の地名

 宇とは空間や広がりのことで,都(戸)は入口のこと。宇都とは,「小川に侵食され細長く袋状につながった田園地帯」のことである。

 宇都さんのルーツはほぼ鹿児島で,門割制度の宇都門(水利がよく肥沃な水田地帯)から発生した地形地名である。甲突川の支流のような小さな川沿いに入り込んだ瀬戸や迫より広い土地である。 県内の宇都の多くが比較的小さな川沿いの迫に集中しているのは,私見であるが,「門」という5~10軒程度の農家組織で一定の小字地域にまとまって居住していたからであろう。伊敷原良地区にも田中宇都,伊敷台下の宇都,護国神社の宇都,夏影宇都5か所の宇都の小字名が見られる。

中福良

・ 柳田国男によると,福良は「ふらむの意味の袋地名」の一つで,川や海,池,窪地などに多い。海岸沿いの湾曲している形状や山間部の河川が屈曲した平地の呼び方である。

 中福良は,山間部の河川流域の田園地帯に多い。宇都と同様の特徴もあり,「小河川沿いの中がふくらんだ平地」のようである。岩崎橋を挟み,甲突川に注ぐ,幸加木川や山崎川沿い両方に中福良の地名が残る。かつて甲突川が天文館通り辺りを流れていたため,ここらの道を中福良通りと言った。また,一時期,甲突川の中州で盛り上がった高見馬場のような微高地を呼ぶ場合もある。

・ 幸加木川や岩崎川両沿いの中福良

岩崎

 岩崎(岩前)橋から日当平に入った地域を岩崎という。岩が平地に突き出た地形で,門割制度の岩崎門から残る古い地名である。山崎川が伊敷台と玉里団地の岩肌を侵食して平地に突き出した地点で,その前に位置する平地を岩崎と呼ぶ。山崎川の崎は前のことで,山あいを流れる川である。江戸期には伊敷台側の南向き斜面が日当平で日当たりがよい田畑が反対の北向き側に人家が点在していたようだ。

河頭

 河頭は鹿児島は最南端にあたり,中国から漢字が伝わる時代によって他とは異なる読み方があるので地名由来が難しくなる場合もある。川を「こう」とすると河頭は川上ということになるが…また方言から訛りによる転訛も考えておくべきである。

 花野・花倉・花棚の花は「消えるが(ケ)と訛るとすると」花野(氾濫などで野原が崩れる)・花倉(倉は崖のことで崖崩れの所)・花棚(棚は高台)。郡山の花尾は「はな」と呼ぶので端(はな)かつては吉田は大隅の国で,吉田側にも花尾神社がある。

 

飯山 ③肥田 ④脇田 ⑤ 田・長 ⑥ 新村 ⑦仮屋

草牟田

 草牟田町(そむた)は,明治44年まで下伊敷村でした。むかしこの辺り一帯が湿地で沢牟田のことか。また,この辺りは鶴尾(?)と言う字名であり,城山の地形が舞鶴に似ているからその尾にあたる鶴尾になったと伝えられている。川沿いの地名に「鶴」が付く場合は概ね川底がツルツルと滑るので鶴の地名が多い。鶴尾は甲突川まで迫っていた城山の尾根のことか。鶴田は川田のことで川の水を使った田。鶴丸は川の水を利用した開発(丸・春・張・針など)した土地(佃)。

玉江

 玉江橋の玉江という名は,その昔,玉里の一角付近の山裾まで海が入り込み入り江をなしていたからと言われる。海はともかくとして沼などの湿地帯であったようだ。明治時代まで玉江橋から西田町までは広い田地が広がるだけで,さえぎる一軒の家もなかった。新上橋近くに湊があったと聞く。

永吉

 永吉 永吉という地名は,鎌倉から下向してきた殿様が,川に近いこの地を見て永遠に土地が肥え米や作物がよくできることを願ってつけられた名であるそうだ。末永く吉とは縁起がいい。南北朝時代(1354年)に原良・永吉に陣を構えた北朝方の島津氏と南朝方の畠山氏とが,今の山田電気からアリ-ナ辺りの川をはさみ対峙して戦ったところだそうだ。いっこうに勝負がつかず武勇の代表(山田)が一騎討ちすることになる。両軍見守る中,島津側の代表が相手方の甲(かぶと)を突きさし,笠じるし(味方の目印)奪いとったので,甲突川というようになったと伝えられている。また,「原良の戦さ(1412年)」では,原良団地入口から原良小近くにかけては,400名を超す戦死者がでたところである。河頭や甲突川の「こう」から考えると「川の流れで土手を突き抜く勢いある暴れ川」では無理があるのだろうか…。

タイトルとURLをコピーしました