伊能忠敬が「けだし天下の絶景なり」と称賛した頴娃番所鼻の海岸線
かつて勤務した離島や海岸沿いの学校の多くで,伊能忠敬による測量が行われていました。そこで鹿児島県史料集『伊能忠敬の鹿児島測量関係並びに解説』を主な参考資料として活用し,その地域での伊能隊の動きや測量の様子を調査し,学校の史料として残すと共に子どもたちに地域素材として紹介してきました。これは私にとって,ライフワークの一つになっています。
・ 番所鼻から見る開聞岳「まさしく日本一の絶景」
今回は,1810年7月13日(新暦8月22日)にわずか1日の日程で行われた頴娃測量について紹介します。宿泊地は頴娃町麓の中島・種田家(現在の郡地区公民館近く)と西塩屋の森山・安田家でした。当時,持病が悪化していた忠敬は駕籠に乗り,先発隊と共に行動していました。
・ 頴娃町の伊能止泊地(この付近一帯に広い屋敷があった)
石垣浦からは藩船を利用して番所鼻へ移動し,しばらく滞在しながら,この地から見える風景をスケッチしていたと伝えられています。このことが後の「けだし天下の絶景なり」に繋がったと思われますが,伊能忠敬記念館に確認すると日記や資料等にそのような記録はないとのことでした。確かに全国を回っている幕府の測量隊長が安易にここが一番とは言えないですよね。「私は伊能の傍にいました。彼は確かにそう言っていました。」と薩摩の役人が言えば否定はできませんね。
伊能測量は,第5次以降の測量から幕府の直轄事業となり,経費もすべて幕府から支給されるようになりました。それ以前は,地元役人との折衝などで苦労することも多かったそうですが,薩摩での測量では藩庁からの絶大な協力を受け,地元の協力隊が事前に待機し,船や測量の準備を整えるなど,スムーズに進行したようです。
その結果,測量隊は余裕を持って行動することができ,翌日の測量地点まで隊を二手に分け,後半部分を担当し早めに出発する「先発隊」と,前半部分の測量を担当する「後発隊」に分け,一日の日程でも効率的に測量が進められていたのです。
頴娃測量の中間基準点
伊能測量では,二手に分かれて作業を行っていたため,始点,中間点,終点としての基準点が必要でした。そのため,河口や岬がよく基準点として選ばれました。現在,この場所は港湾工事によって削られて島となっています。
・ 陸続きだった岬で対岸の岩場は削った跡(頴娃漁港)
今では堤防が築かれ,波の影響を受けない良港となっていますが,かつては水成川河口の崎として利用されていました。この調査で測量距離から水成川河口近くに中間基準点があると想定していましたが、特定できずに困っていました。そんな中、地元の郷土史家の方が「測量基準点」として地元で伝わる地点に案内してくださり、そこで確証を得ることができました。
・ 地元の郷土史家から教えていただいた伊能隊が彫ったと伝わる測量基準点。この中間基準点を挟み,先発隊と後発隊の測量が行われていた。(伊能測量での地域ぐるみの手伝いと基準点のことは,地域の高齢者たちが代々伝えていたそうです)
伊能忠敬一行による頴娃・知覧町の海岸線の測量は,1810年7月13日(新暦8月22日)のわずか1日で行われました。この頴娃測量は,伊能の総出張日数の3000分の1日,総距離の2000分の1にすぎません。しかし,頴娃町にある水成川河口の中間基準点を挟んで,16.2キロにわたる測量は非常に大きな意味を持っているのです。
※ 伊能地図を見ると,点線のように「いせえび荘」横の遊歩道を通り,タツノオトシゴハウスからは海岸線でなく,近くの山道を測量して行った測量線が見えます。伊能中図では必要のない小さな岬や海岸線は大まかな測量になっています。
江戸初期,幕府の統治が安定すると,薩摩藩は長島と甑島を除き,各郷の地頭を鹿児島城下に住まわせる掛持地頭制を採用しました。この頃,開聞岳南平にあった遠見御番所を,主要航路を見渡せる水成川長手崎へ移したとされています。
・中間基準点から見た水成川対岸の番所鼻
東シナ海に面する南薩の地域には,異国船番所,津口番所,遠見番所,火立番所などが設置され,沿岸警備が行われていました。長手崎の遠見御番所では,異国方御用として地元の郷士2名が交代で勤務し,異国船の発見などの任務に当たっていました。この地域に番所に関する施設があったため,「番所処」と呼ばれ,それが後に「バンドコロ」となったと考えられます。