伊能測量がもたらした縁~寺島宗則と榎本武揚

 榎本武揚は函館戦争の戦犯であるにも関わらず,松方正義や黒田清隆といった薩摩出身の総理大臣の下で外務大臣,文部大臣,逓信大臣などの主要閣僚を歴任しました。そこには,寺島宗則の影響があったとされています。まず寺島が榎本の実力を評価していたことや榎本の遠縁に当たる福沢諭吉が欧米使節団の友人寺島に頼み,大久保や黒田に榎本の助命嘆願を依頼したとも言われています。

薩摩測量でのエピソード

 『阿久根市史』によると,松木宗諄(寺島宗則の祖父)は島津重豪に気に入られ,伊能忠敬が九州南部沿岸の測量には,藩命で測量を支援し,沿岸の案内役を務めました。この際,松木宗諄は測量隊に付き添い,交渉担当として榎本武揚の父である箱田良助と共に行動していました。この関係が半世紀後,榎本武揚や黒田清隆らが樺太・千島交換条約の交渉と締結を実現する際の基盤(北方領土確定)となっていったのです。

※ 関連記事「甑島の松木少将と大炊御門中将の墓《R5》12月8号」より
 公家の家系であった松木19代宗信から数えて9代目宗保の子(関ヶ原の一番首で名を馳せた長野勘左衛門の子孫に当たる)が、明治政府の外務卿・寺島宗則である。出水の松木27代宗諄(寺島宗則の祖父)の次男祐照は,日向伊東氏の流れをくむ長野氏の養子となりその子祐徳の弟が寺島宗則である。長野から脇本湾の寺島から名をとり寺島を称した。

 また,県史資集『鹿児島測量関係資料並びに解説』によると,当初,伊能忠敬の測量隊は薩摩藩による妨害を受けるのではないかという噂がありました。しかし,薩摩藩は近思録崩れの翌年という背景もあり,藩主・島津斉宣が隠居し,開化政策を推進した島津重豪の実権下にありました。このため,藩の留守居役である野元嘉三治が江戸で伊能と頻繁に接触し,測量の打ち合わせを行っていたのです。

 さらに,薩摩藩の役人たちは測量隊に同行し,志布志で迎え入れ,獅子島から天草まで見送るなど,非常に協力的でした。藩から『麑藩名勝考』(1795年刊)などの資料が事前に提供されており,その情報を元に測量計画が立てられたため,他藩よりも円滑に進行したようです。また,藩は琉球泡盛(当時泡盛は超高級品で上級士族クラスの贈答品であった)と国分煙草を贈るなどの非常に友好的でした。ただし,測量隊の規則で飲酒は厳禁(解雇)であったため,泡盛は各自宅に送られました。

 ・ウィキペディアより

・島津重豪(1745~1833),伊能忠敬(1745~1818),箱田良助(1790~1860),松木宗諄(?)

・大久保利通(1830~1878),寺島宗則(1832~1893),松方正義(1835~1924),榎本武揚(1836~1908),黒田清隆(1840~1900) 

伊能忠敬と間宮林蔵の関係

 明治政府がロシアとの交渉を進める際,黒田清隆は榎本武揚を使節として派遣し,樺太放棄論の政策を推し進めました。榎本はロシア側との交渉で,当時は議題に上がっていなかった北千島の交換を取り付け,樺太・千島交換条約の締結を実現「千島全島は日本領に確定」させることに成功しました。

 しかし,その前段階として,ロシアとの国境確定に重要な役割を果たしたのが間宮林蔵の地図でした。間宮は伊能忠敬の弟子として測量技術を学び,伊能忠敬が蝦夷地の測量に行けなかった際,間宮が代わりに蝦夷地を測量し,測量図を作成しました。その結果,『大日本沿海輿地全図』における蝦夷以北の地図は,最終的に間宮の測量図をもとに完成されたのです。後に,林蔵が発見した海峡は,「間宮海峡」と名付けられました。

榎本武揚の父,箱田良助

 渡辺一郎著『伊能忠敬の地図をよむ』によると,箱田良助はもともと農家の子でしたが,江戸に出て伊能忠敬の弟子となり,1810年の九州測量から正式に参加しました。その後,内弟子の筆頭となり,地図の完成に尽力しました。

 1821年に伊能図が完成すると,箱田良助は50両で幕府旗本・榎本家の株を買い,養子となって幕臣となりました。その後,榎本武揚が生まれます。伊能忠敬の測量が幕府の事業になったことで,内弟子にも月2両3分の給与が支給され,10年間で300両を超える収入となりました。もし箱田が伊能の内弟子にならなければ,榎本武揚の存在もなかったかもしれません。

 「箱田良助誕生の地」の石碑によると,箱田良助は、1790年に広島県福山市の箱田村で、庄屋である細川園右衛門の次男として生まれました。後に箱田良助と名を改めます。1807年、17歳で江戸に出て、伊能忠敬の門下となり、測量術を学びました。1809年には、伊能忠敬の九州測量の第1次と第2次に参加し、その後、伊能の筆頭内弟子として測量と地図作成に尽力します。1821年には『大日本沿海興地全図』の完成に大きく貢献しました。

 翌年、箱田良助は旗本である榎本家の株を5両で購入し、養子となって榎本園兵衛武規と改名しました。その後、幕府の御勘定方に任じられ、旗本としての地位を得ます。彼の次男である榎本武揚は、後に五稜郭での反乱を経て明治政府に許され、要職を歴任することとなりました。

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