◎ 伊能測量(給黎)
富永章子(阿久根市)~絵
◎ 伊能測量は10次にわたっているが,第7次(1810)と第8次(1812)の時、薩摩藩も同行して測量を実施している。今から213年前の第7次,2日間に渡り喜入を測量している。喜入関係は,8月3日に谷山・木之下川河口から喜入・八幡川河口までの18キロと,8月4日の喜入から今和泉駅近くまでの16キロの2日間の測量であった。
谷山から喜入迄の測量区間を先手と後手の2班に別け,朝6時から測量し,それぞれ12時と14時に喜入の宮坂に着いている。到着後すぐに測量資料の整理や以後の計画,先触れの作成など忙しかったようだ。
喜入での宿泊地は上之村字宮坂で,伊能の本陣は,肝付小十郎宅,測量隊は邦永五郎左衛門宅に宿泊している。宿泊地には,藩や地元役人が伊能に面会を求めてきていた。喜入でも村役人前田隆兵衛,与頭代西村織右衛門,郡見廻永田友介,浦役山口甚五衛の記録が残っている。
☆は天体観測地
1 木星観測について
この夜は喜入・麓公園近くで「木星観測」を行っている。「木星凌犯が見えたが,竹や木が覆いかぶさり,木星だけで衛星までは測れなかった」と記載がある。木星観測とは,木星とその4つ衛星の凌犯(木星の衛星が木星の影に隠れる現象)の測定を行い,江戸浅草の暦局において同時観測していた記録をもとに経度の調整を行うことである。伊能地図を見ると薩摩半島南部は,経度の調整不足から西側にずれている。天体観測が天候その他の支障で失敗が多いからだ。
2 後手と先手について
(1) 後手「坂部,下河辺,永井,箱田(榎本武揚の父),長藏」は,区間の前半部分で,谷山小近く木之下川河口から七ツ島やサンライフプール近くを通り,五位野,平川まで約8キロを測量した。
(2) 先手「伊能忠敬・青木・上田・梁田,平介」は,後半部分で,平川から喜入湊(八幡川河口)まで約10キロを測量した。
3 測量日誌の地名記載について
伊能が記した日記に「上之村と下之村この両村を郡名給黎の換字を用いて喜入という。」と記載されている。明治に入り,上村が中名村・瀬々串村に,下村が前之浜村と生見村に分れている。明治30年の郡制施行で,給黎郡が廃止され,川辺郡と揖宿郡が発足するまで「給黎郡喜入町」と表記されていたことが分かる。
4 エピソード
薩摩測量には,藩も協力し藩主の命で役人も同行している。この測量期間,寺島宗則の祖父松木宗諄が沿岸案内係「※阿久根市史」として,榎本武揚の父箱田良介と出会っている。函館戦争での戦犯榎本武揚の助命嘆願をした黒田清隆(北海道開拓長官・総理)の先輩が同郷の寺島宗則であった。彼らの後ろ盾もあり,榎本が明治政府で活躍できたのである。