伴性頴娃氏(肝付一族)の内紛と衰退【R5】8月6号

はじめに

 頴娃氏は平姓頴娃氏とそれ以後の伴姓頴娃氏とに分かれる。伴姓とは、平姓頴娃氏と区別するため言われるが、元々肝付氏が大伴氏流れを引く「伴一族」であることからその名がついた。

 戦国時代に入り、室町幕府が弱体化すると、頴娃の地を含め藩内でも豪族間の勢力争いが繰り返されていた。平姓頴娃氏は頴娃古城を拠点として室町時代までこの地を治めていたが、1418年、島津元久との戦いに敗れ滅亡し、島津家の領する所となった。久豊が島津氏の家督を継承すると、養子として、肝付家十一代兼元の次男、兼政を頴娃領主とした。これが伴姓頴娃氏の始まりである。その後、肝付氏や島津氏との関係を強化する中で勢力を拡大していった。

 久豊が肝付家次男に頴娃を与えたのは、大隅の雄、肝付宗家への懐柔策や渋谷氏・肝付氏等の国人衆の再編が目的であったものと言われる。 明徳年間は島津氏が勢力固めを成し遂げていく時期である。宮之城役場内に頴娃殿石「えいどんの石」という石塔がある。南北朝が合体した前年の明徳2年(1391年)の文字が刻まれており、親族を頼ってこの地に逃れてきた平性頴娃氏の一族(小牧氏)が、島津氏を恐れたこの地の領主に殺され谷底に落とされた伝説が残っている。

 1420年、島津久豊が、平姓頴娃氏支流の小牧氏を滅ぼし、肝付兼政を養子として、藤原姓と幕紋十文字を賜り、頴娃、揖宿、山川を与えたと言う。久豊の命で島津美作守忠豊と号したが、肝付家をたばかり、伴兼政を名乗ったが、島津氏により作られた一族の色合いが強い。両家に振り回されながらも独自の文化と統治で一時代を築き上げていった。

・頴娃殿石(宮之城支所駐車場横)

伴性頴娃氏歴代当主

 伴姓頴娃氏とは、平姓頴娃氏と区別するため言われるが、元々肝付氏の流れの意味で、肝付氏が大伴氏流れを引く伴一族であることからその名がついた。初め島津忠昌の3男忠兼(14代勝久)を養子としていたが島津宗家の事情により忠兼が頴娃家を去り,肝付家から養子として迎える。

(1) 歴代当主

① 初代兼政(美作守):肝付家十一代兼元二男、島津久豊の養子。島津宗家との交友関係を保ち,平姓頴娃氏滅亡後頴娃の領地の支配。

② 二代兼郷(二郎三郎):母は平田重宗(肝属郡串良岩弘城主、平田家二代重宋)の娘。室は肝付第12代兼忠の娘。孫は九代で義久筆頭家老の増宋。

③ 三代兼心(山城守):母は肝付兼忠の娘。兼心は藩主忠昌と親しく,勝久を養子としていた。学問を好み神仏を崇敬し,桂庵の高弟で詩人の巣松以安や耕翁舜田(日新公師)の実弟,自畊祐田を証恩寺に招集するなど島津宗家との関係を重視した。

④ 四代兼洪(山城守):肝付家十四代兼久三男を養子とした。母は田代出雲守の娘。正室は肝付一族の北原氏の娘。兼洪の娘は日新公の3男尚久に嫁ぐ。この頃の島津宗家は薩州家との争いなどで勢力が衰退していた。そこで島津宗家との関係を絶ち,日新公・貴久との盟約を結び,指宿全郡の所領化に成功した。

⑤ 五代兼友(兵部少輔):母は肝付氏庶流の北原兼憲の娘。20才で死去。

⑥ 六代兼堅(山城守):兼友の弟。正室は島津氏の樺山家七代信久の娘。貴久は兼堅に盟書を送り行動を共にし、頴娃氏の全盛時代を招致した。兼堅の長女(本田親正室),次女(肝付兼覚室),三女(川上久辰室)貴久の正室肝付16代兼続の姉,兼続の正室は貴久の姉御南。両家の政略結婚により良好な関係であった。

⑦ 七代久虎(左馬介):義久公より久の字を賜る。母は帖佐氏の娘。久虎の室は相良氏、桐原氏の娘。久虎は兄兼有殺害の件「証恩寺崩れ」で咎めを受け,主要財源の山川湊の支配権を失う。頴娃兼慶から義久より久の字を賜り久虎と名乗る。久虎の娘は(町田20代久幸の室)

※ 島津軍門に下る(肝付の兼の字の使用をひかえる)。兄兼有の正室は肝付16代兼続・日新公の娘御南の娘であり,当初は久虎の処遇は難しい状況であった。兄兼有の子,兼次は祖母方の樺山家8代善久(室は日新公の娘)に引き取られ出水樺山家を継ぐ。

⑧ 八代久音(彌三郎):三郡を没収され山田村・西俣村(750石)へ移り住む。朝鮮で病死し、伴姓頴娃氏の正統は、久音をもって終焉を迎えた。義弘は娘御下と久音を婚約させ領地の回復を約束。御下は久音の死で,伊集院忠真と結婚。(幸侃の讒訴により没収)頴娃家は事実上消滅した。

島津氏と肝付氏の決裂

  戦国期の同盟関係は、戦国大名乱立や家臣団の下剋上など複雑化していく。島津一族も例外でなかった。秩序維持が難しい時代、人質や政略結婚で結ぶことがよくある。島津家中の内紛時代の島津氏と肝付氏も同様である。日新公は島津氏の統一に努め、長女・御南を十六代兼続と政略結婚させた。1561年、複雑な同盟関係の矛盾が噴き出て、肝付兼続は日新公、貴久父子と決裂し、島津氏と対峙した。1573年、島津氏に敗れ18代兼亮を追放し降伏した。19代兼護は鹿児島に減封され事実上滅亡し、家臣団の再編が強まっていく。 

頴娃氏の内紛「証恩寺崩れ」

(1) 慶兼(久虎)と正嫡兼有

 九郎塚の案内板よると、六代兼堅は島津氏の有力分家、加治木小浜領主樺山氏(七代信久)の娘を正室に迎え、九郎兼有が生まれた。また、帖佐氏の娘を側室に迎え、小四郎慶兼(久虎)が生まれたとある。兼堅は五代兼友の弟で、後継者となり六代領主となった。樺山氏の後ろ盾もあり、島津氏へ崇敬の誠を尽くすことができた。1569年、父兼堅は、39歳で卒去した。正嫡の兼有を疎み、庶子の久虎を溺愛したため、内紛のもとを作ったとされる。この背景には兼有の正室は十六代兼続・御南の娘に当たり、肝付本家と島津家の決裂があり,裏で島津宗家の指示があった可能性も指摘されている。

 兼有と久虎派の娘の対立が激化、一時期兼有は妻の実家・肝付氏に身を寄せる。兼有の嫡男兼次は祖母・樺山家七代信久の娘の実家に引き取られ、樺山家八代善久によって出水樺山分家の当主となり、樺山久増と改名。兼有が島津家久や頴娃氏家老・津曲俊宗等の支援を受け、頴娃氏への復帰を計ったが、久虎家臣・頴娃兼豊によって開聞神社の社頭にて暗殺される。九郎は瑞応院(牧聞神社別当寺)第14世頼宋と共に坊津一乗院に逃れようとしたが、小四郎軍に追われ、殺害された。村人たちは悲運の士九郎兼有の霊を弔い慰めるため、塚を建てた。「クロドン(九郎どん)」とも呼ばれ、後世に語り伝えられている。

 この事件の処分については、久虎家臣の頴娃兼豊は切腹したが、久虎の母の処分の記載はない。頴娃氏菩提寺の大通寺跡墓地に久虎と共に、6代兼堅側室の宝篋印塔も現存しているのでこの件での責めはなかったのではないか。しかし、1579年、反対派を誘殺した「証恩寺崩れ」事件で、山川港の支配権を失う結果となり,衰退の要因となった。

兼有の墓

(2) 頼宋の伝説

 頼宋は兼有を助け開聞宮にかくまったが兼慶の大軍に敗れて一乗院へ共に落ちようとした。しかし、頼宋は途中で敵兵に発見され、矢を受けて倒れた。太刀を振りあげた敵に「愚僧の首をはねて赤い血がでるか、白い血が噴くかよく見よ。白い血が噴いたら愚僧がやったことが正しいのじゃ」と首をさしのべた。予言の通り白いあぶくが噴きだした。斬った侍は大いに怖じ気づいたと言われる。頴娃兄弟の戦いは九郎と頼宋の戦死によって終結した。

瑞応院頼宋の墓

頴娃氏の衰退

 四代兼洪の時代、伴性頴娃氏領地は、島津一族、肝付氏、祢寝氏との間で離反・統合・戦火が起こり、忠良軍と一色触発の危機が迫っていた。1531年、「爾と旧好を修す」と誓約書を交わし、これ以後貴久派についた。

(1) 久虎の代

 最大の敵、肝付氏が島津氏に降りると、家臣団の再編が盛んに行われるようになる。1576年、頴娃家も同様で、義久は判物を与えて、肝付氏の兼の字を改めさせ、義久より久の字を嫡々に使うよう介入され、兼慶を久虎と改名している。実質上、島津氏に吸収統合され一武将になったことを意味し、九州全域の侵略戦争にかり出される。

阿久根市在住 富永章子氏

 「豊肥戦はすべて、久虎によった」と義弘に言わしめ、義弘の手勢として勲功をたてるようになる。開聞町のモクヨ山六地蔵塔の碑文に、「1580年平姓頴娃池田対馬守の次男が島津軍に加わり戦死した」とある。久虎は頴娃郷の家臣団を従え、九州各地で転戦し、敵を従属させてきた。

 1581年、島津勢は水俣の相良義陽の子二人を人質として和解を許した。義弘は相良晴広の娘を継室として迎え、久虎も相良氏から室を迎えているので義弘との関係が深いことを伺わせる。九州統一侵略戦争では、義弘派の談合衆に入るなど、家臣団の中でもかなり信頼される地位にいたようだ。

 1587年5月、秀吉の九州攻めに敗れ、義久は断髪し龍伯と号し和解したが、九州平定で領地を失った家臣団の再編が行われる。その後、島津家臣団の領有権や勢力争いも複雑化していく。

 義弘派の武将として、久虎は対豊臣戦に出陣し、九死に一生を得て帰陣したが、1587年8月、30才のとき、領内の池田清見で農民の反乱が起こり、その討伐に向かう途中で落馬し、その生涯を終えた。九州の侵略戦争に駆り出され、武勇をあげた武将の死にしてはあっけなく、反対勢力からの暗殺説も伝わる。やがて頴娃氏の本願地は島津氏の直轄地になっていく。

(2) 久音の代

 久虎の没後の翌年、義弘は久音の代替わりに起請文を送り、頴娃家の異変ならんことを約束したが、九州征伐による領地不足や家老等の讒言により、山田村に改易となり、百分の一に減封され、170年に渡る支配は終わった。

 15才になった久音は、二回目の朝鮮出兵に義弘派の武将として従った。義弘は「汝恙なく国に帰らば則本領を復し、且公姫を以って汝に配すべし」と、御下が十四歳のとき、久音と婚約させた。約束通り、二人を結婚させ領地の回復させる心積もりがあったのであろうか。しかし、翌3年10月、久音は朝鮮半島で病没してしまったので、この婚約は消滅した。その後、御下は因縁の伊集院忠真の正室となり、頴娃の地は一時期忠真の所領となる。

おわりに

 玉里島津邸から下伊敷一帯は、平安期に名門大友氏の流れを汲む薩摩掾伴兼行が伴掾館を建て開拓した地である。「※本ブログ伴掾館を参照」その子孫が肝付氏を名乗り,大隅の雄として君臨した。その一族である伴性頴娃氏の栄枯盛衰は中世の島津氏や肝付氏,渋谷氏,伊東氏,その他の豪族との戦いの歴史でもある。戦国期の同盟関係は、勢力の崩れ等による秩序維持が難しい時代である。この複雑な関係の矛盾が噴き出て,肝付氏が滅亡すると、頴娃氏の存在感が揺らぎ,江戸期を前に「南薩の雄」伴性頴娃氏は消滅した。

 南薩や大隅,奄美大島に点在する山川石の六地蔵塔や板碑等に刻まれた碑文が残っている。銘文に残された独自の文化や宗教等は、頴娃氏の繁栄の深さを物語っている。南薩摩の交易や文化の発展に大きく寄与した頴娃氏の知略を感じる。戦国期の動乱の世を「学問や宗教」を中心に据え,「民衆を束ねるのは力でなく徳や仁である」と,仁政を敷いてきた頴娃氏。今後とも伝えていくべき武将達である。

・ 参考・引用文献:薩南文化第7号・頴娃町郷土誌・薩陽武鑑・本藩人物誌・薩摩国指宿郡頴娃郡石造塔婆考(重永宰)・開聞町郷土誌・伴性頴娃氏系図

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