伴掾館(ばんのじょうのやかた)について(1)【R5】7月5号

1  伴掾館「伴氏(肝付氏)」

 鹿児島の三大武士団とは島津氏・渋谷氏・肝付氏であるが,最も早く土着したのが肝付氏である。この一族を遡れば大伴旅人や家持に係わる名門で支族も多く,大隅にはその子孫も多い。

 伴兼行が平安末期に薩摩国総追捕使に任ぜられ、薩摩掾として薩摩に下向し,鹿児島郡神食村に館を建て治めたと伝えられている。平安末期の1036年,曾孫兼貞の代に至って大隈国肝属郡弁済使となり,その子兼俊が高山に移って肝付氏の祖になった。

 その後1053年になり,代わってこの鹿児島郡に入った長谷場永純は東福寺城(三州で初めての城)を築いて治めたという。

 時は下り,長谷場一族の伊敷忠純が伊敷中福良城を築き,伊敷地域の領主となってこの地を治めたと言われている。南北朝時代の1342年,北朝方の5代島津貞久が坂本村・催馬楽城(矢上城)の矢上高純(南朝方)を,翌年,長谷場氏(南朝方)を打ち破って入城。この頃,鎌倉末期城山に下向した上山氏(松尾・小原)も桜島へ移り,以後島津氏の治世が始まった。

・ 妙谷寺跡。妙谷寺は福昌寺の末寺で、『三国名勝図会』によるとこの寺の境内地の裏山に「伴掾館址」があったと記されている。

・ 平安期に太宰府から総追捕使(警察)に任命された伴氏。戦国期でもない当時,山城を作る必要がないとの指摘もある。玉江の由来によると,この付近は入江(湊)に面した湿地帯であったそうだ。少なくとも近くの新上橋には湊があった記録が残っている。天文館などの市街地が江戸期に埋め立てられたことや海抜がそう変わらない山間に唐湊の名が残ることからも,この地が入り江(谷間に海が入り込んだ)であった可能性も残る。江戸時代までは護岸工事の未熟さから海沿いでなく,河川から引き込んだ干満の影響が少ない船溜まりが湊であった。追捕使として海路で軍隊を素早く動かせることでこの地に下向した可能性はなかろうか。そうすると山城ではなく妙谷寺辺りの湊沿い(妙谷寺~お由羅屋敷)に館があった説も頷ける。

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