冷物取(ひえもんとり)について(2)【R5】8月8号

・里見弴の短編小説「ひえもんとり」大正6年~抜粋~

※ この里見の作品から「薩摩の冷もんとり」として全国に伝わっていきました。

 昭和40年代,川内市の小学校教諭が地域の民話の一つとして取材を交え書き直していますので,一部表現や情景描写が原作と異なっています。

□ 大気の透明な十一月初めのある朝,近郷近在の士農・老若男女がこの仕置き場を指して四方から田圃の中の道をゾロゾロと集まって来ました。今朝方の雨にしっとりと濡れた土からホヤホヤ湯気が立って低い所に溜まった水の面には,美しい秋晴れの空の色や置き忘れられたようにポカンとした雲の形がそのまま鮮やかに映っていました。
 岡の日当たりに草が黄色く光っていれば,すぐその下に,土が崩れて赤土を見せている崖をヒンヤリと,堅そうな蔭が彩っていました。そこに竹藪がうち傾いています。また肩を怒らした柿の木で,鵙が蛙の干物を食いながら鳴いています。
 小川の底で長い水草が揺れ動いている上には,めだかが小さな影法師と一緒にどっちへ行ったものかと考えながら,ジッと一つ所に止まっており綺麗に透いて見えています。秋はまだ浅い十一月初めののどかな南国の朝の風景が目に見えるように生き生きと広がっています。

1 平佐の甚兵衛どん 

「今日は平佐のジンベエどん(林平殿の訛)は来るかな。あれが来ちゃとてもかなわないぜ。」こう言いだしたのは,足軽以上の身分の者で,この競技に加われないことが実は残念でならない心中を隠し切れない男だった。「ジンベエどんが…」何あいつに負けるもんかという心持で,先の若者はそれる心を押し鎮めながらも一と言こう口を滑らせた。「どうして…,あれが来ちゃあ,お前なんか踏ん張ったってかなやしない。」
      …略…。
 作品の内容は,藩政時代の鹿児島の風俗・習慣として,他の県に見られない特異なものです。それは死刑囚人の肝を足軽以下の武士が取り出すという競技です。今から考えてみますと,それはまことに残酷極まるものと言えましょう。

2 死刑囚人の入場

 この日の死刑囚人は,土佐の人何故罪人が高知県人なのか?江戸期には薩摩以外の罪人の場合は,幕府に届けるか日向送りであった筈ですが…言葉が通じないとの設定から土佐人だったのでしょうかでずばぬけた大男でした。縄を取る人・首を切る人そして,世話をする人二人に連れられて中央の設けの座に進んで行きました。
 死刑囚人は,自分を取り巻いている元気な若者達が,どれもこれも妙に殺気立った目を向けているので,不思議なそして嫌な気持ちでした。死刑囚人は土佐方言で「ちょっとお伺いしますが,これはまあ一体どういう見物でしょう。」と世話人にたずねてみました。
「ひえもんとりさ」と,あっさりと答えられてしまいました。土佐生まれの死刑囚人には,その言葉の意味が全然通じませんでした。でも,あらためて聞き返しもせずに背後に縛られている手の節太な長い指へ親指をからめ,ポキンポキンと一本一本鳴らしながら歩いて行きました。

3 ひえもんとり

 死刑の用意がすっかり整いました。「ひえもんとり」の人達には,競争で「用意」の号令がかかったと同じ事です。腰を落とし,片足踏み出して今にも駆け出すばかりの姿勢をとりました。この人達の凄まじい眼光はピタリと今振り上げられた刃の下に釘付けになりました。それが打ち下ろされるのが,ドンと鳴る合図の号砲にあたるからです。
 急に見物人も鳴りを静めてあたりには深夜のような沈黙がしかれました。どこかで鵙の凶悪な鳴き声が二声・三声空気をつんざきました。中央座席に引き据えられている他は,誰も彼もはち切れそうな退屈をもって,次の瞬間を待ちに待つのです。固唾を飲む暇もないほどです。七~八秒が痛苦しい忘我境でした。士農・老若男女の心が刃のきっさきに突っ刺さっているのでした。
 さっと刃が振り下ろされると同時に,ひえもんとり達は,一斉に中央に向かってかけ出し,先を争って死刑囚人に駆け寄りました。しかし,一番先に手をつけた人だけが,その肝取りの資格が貰えるのです。その他の人達はあっさりとその場から引かねばなりませんでした。勝利者となるには,他人よりも早く駆けつけ,一瞬の間に肝を取り出すすばしっこさが是非とも必要だったのです。

4 あっぱれ 平佐のジンベエどん

 今日の「ひえもんとり」の優勝者はいったい誰だったのでしょうか。見物人はその事でもう頭の中はいっぱいでした。やがて,優勝者が立ち上がりました。取り出した肝を右手に高々と差し上げ白い歯をむいて笑いながら突っ立っている男。それはまさしくあの平佐のジンベエどんだったのです。見物人は思わず「わーっ。」と歓声をあげました。そして,薩摩の武士としてのジンベエどんの勇敢さ・たくましさを心から褒め称えました。
「ジンベエどんじゃないか。」 
「ジンベエどんだ。ジンベエどんだ。」
「ジンベエどーん。」  
「ジンベエどんえらい。」  
「でかした。でかした。」
「やぁどうも驚きましたな。またジンベエどんですか。天下無敵だね。あの人はー。」
「よー。日の下開山! 横綱ぁ!」
 優勝者のジンベエどんは嬉しくてたまりません。見物人に向かって「諸君ありがとう!。ありがとう。」とお礼の言葉を何度も繰り返しました。見物人の若い人達は,さっと駆け出してジンベエどんを高々と胴上げしました。ひょい,ひょいと青く澄み切った南国の初冬の空へ…

5 ひえもんとりのねらい

 「ひえもんとり」とは,首を打ち落とされたばかりの死刑囚人から肝を取り出す一つの競技をいうのです。これに参加出来るのは,足軽以下の侍に限られていました。 ところで,こんな酷いことが,どうして平気で行われていたのでしょうか。この時代に武士は,いざという時,我先にと戦場に駆けつけ敵を一人でも多くやっつけなければなりませんでした。その為に,かねて勇気と気力とを身につけておく必要があったのです。
 そこで,この「ひえもんとり」で薩摩の強い武士としての,たくましい気力を養ったのです。また,この競技に勝つことができれば,その侍は優勝者としてこの上もない名誉なことでした。その上人間の肝は,わが国では残右衛門丸,中国では六神丸と呼ばれ貴重な薬の原料だったそうです。ですから,またとない金儲けの一つでもあったわけです。

 打ち落とされた首を川原や街道沿いで晒すことは,見せしめとしてどの藩でも行っていました。中世までの様相とは異なり江戸の中期以降は,幕府の法度もあり倫理観や死生観など学問的(仏教・儒教)に考えられてきた時期です。薩摩では日新公以来,六地蔵塔の建立など敵味方を問わず死への尊厳が大切にされてきました。また,例え競技であろうと,一人の丸腰の相手を大勢で襲うのは卑怯であるとする土地柄です。このようなことが薩摩の刑場だけで行われていたとは(一部の資料から),信じ難いことではないでしょうか。皆さんはどう考えますか。 

□ 以上が里見の短編小説を元にし,平佐の言い伝えの一つとして小学校の先生が書き換えた内容です。出版社の企画物として応募したそうですが,余りに残酷すぎるとして採用されなかったということです。確かに昭和40年代では劇画以外には内容的に無理ですね。

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