副田凱馬(よしま)先生の話【R5】9月1号

(1) 昭和63年2月,勤務校の学校参観で副田凱馬先生(明治38~昭和63年)の講演会がありました。当時作文指導が苦手であった私は,大変楽しみにしていました。「私たちの作文」の講評者として詩人で作文指導でも有名な先生であったからです。

 講演会後,先生のご自宅が薬師町で,私の実家と近かったので,日置郡内の小学校から先生をお送りしました。車の中では「番号作文」など作文指導について具体的に分かりやすく教えていただきました。当時は作文指導を難しく考えすぎており,苦手意識から自ずと国語指導が嫌いで算数や社会科に力を入れていたことを覚えています。

(2) 先生の指導を生かして早速取り組んだのが「イメージトレーニング」でした。毎日の帰りの会(当時は時間が十分に取れていた)の後,テーマを出してそれについてイメージしたことを一つずつ順に発表させる時間です。例えば,最初の子が身の回りの物から「①わたしの友達,赤鉛筆」と言うと,次の子(座席や出席番号で…)から順に,①からイメージする言葉で「②ノートの大切な箇所の赤い印」と出します。「③ぼくの筆箱にはたったの1本」,「④頑張ったテストは95点,赤×一つ」,「⑤宿題赤だらけ,ぼくの顔は鼻血で真っ赤っか」,「⑥赤鉛筆使い過ぎ,赤い削りカスで一杯」…と言った具合に続けていくのです。一人10秒以内で勿論同じものはNG,先に言われたり思いつかない子はその回はパスできますが,答えるまで続けます。こうなってくると子どもたちに強制させている,配慮に欠けるなどクレームになりそうですが,当時は私自身そこまで深く考えていませんでした。

 しかし,回数を重ね定着してくると,子どもたちも予めネタを準備していたり,楽しみながら発表したりするようになり内容も充実していきました。「子どもに教えられる」と言いますが,発想のきっかけを自由にしてあげると,想像の豊かさは本当にすごいものです。語彙力や想像力を鍛えることができ,叙述に即した読解力も定着し,他の教科にも役立ったと思っています。何よりも教師として,苦手だった作文指導が好きになり作文コンクール等にも積極的に取り組めるようになりました。教諭時代は国語科を研究テーマにして取り組んでいきました。

・購入した著書と頂いたサイン

(3) ところで,副田先生の話の中でもう一つ興味深いものが戦前・戦後の教職員の人事異動の話でした。先生は師範学校を出て,鹿児島市尋常高等小学校(名山小学校)に昭和17(1942)年まで16年6カ月勤務しています。その後,末吉小の教頭、財部南小の校長、出水市の小学校長(学校名は分かりませんが先生が車中で言っていました)を経験し,鹿児島市の教頭として異動したそうです。当時の鹿児島市教育長が,校長経験者を担任(教諭)にさせることは出来ないと当時はまだ法的な職でなかった教頭職(今の教務主任の主任命課のようなもの)という形の転勤だったそうです。そして鹿児島市教育委員会係長から最後は城南小学校の校長として鹿児島県全体の作文教育の向上に尽くしました。

 定年後は,講演活動や作文コンクールの審査員など後輩の指導に当たるなど精力的に活動されています。わたしが聴いた講演会の8か月後の昭和63年10月8日,82才で亡くなりました。本当に鹿児島県の作文教育,国語教育に人生を捧げた実践家でした。

(※1) 戦後すぐは教員の人手不足や代用教員の問題などがあり,昭和31年の地方教育行政法の施行までは市町村単位の採用が基本であり,他の市町村への転勤は一旦退職した形を取っていた時代があったそうです。副田先生曰く,吉田町の給料が県内で一番高かったそうです。

(※2) 先生が初任の頃の名山小学校は, 鹿児島尋常高等小学校と称して高等科を設置(現在の長田中学校が併設)した中心校で,学校規模も3,500人を超す超マンモス校であったようです。市教委も県下から優秀な先生を集め様々な取組を行い,特に「南方綴方」推進校として作文指導は全国的に有名な実践校でした。昭和38年,長田中学校の場所から移転し,新校舎を建築する際,当時の校長先生が「校舎から本丸御楼門(黎明館)が見えるように」と向きを変えるよう指示した結果,国道10号線とは斜めの向きに校舎が建つことになったそうです。 

・参考・引用資料「郷土人中・下」,鹿児島市教育史

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