原良地区の地名(1) 「源六・原羅営」【R5】7月9号

 原良とは,「原と羅から今の原良川沿いの平らな原野を開墾した土地」或いは「野良作業の如く,開墾以前の野原」の意味と考えられる。原良の地名として,南朝方の畠山国長が原良に陣を構えた「原羅営」とあり,それ以前の古い地名と考えられる。この陣営の館があったと考えられる源六は「源緑」からきたもので,原良の村落の起こりを示す言葉と言われている。源緑は「山手の縁」の意味で,四丁目の一番奥の山際にあった地域と考えられる。このことから,原良の地名発祥の地は,当時よく氾濫していた甲突川沿い(アリーナ辺り)でなく,かけごしより上流の原良川右岸沿いではないか。原良四丁目のファミマから原良温泉裏辺りで,枯木迫と中迫の間の,源六宇土に陣営の館があったと考えられる。

~はららの史跡より~  

かけごし(架け越し)の地名

・かけごしとは石井手用水と原良川が交わる地点である。甲突川右岸は,とにかく石井手用水優先であった。幸加木川河口一帯の水利権・管理なども地元民が協力して保全や水番などを行っていた。石井手用水は俵船が行き来する関係でかけごしではトンネルを通し原良川はその上を流していた。昭和40年代まで石井手用水が通る小さなトンネルの上を原良川が流れていた。

「郷士はらら」に原良の地名由来として,アイヌ語説「パララ(下方の入口)から伊敷の川下」が紹介されている。しかし,地名由来でよく登場する「アイヌ語説」が広く言われるようになったのは,明治の北海道開拓以降のことである。北海道の地名選定を命じられた松浦武四郎(蝦夷開拓御用係)によるものが多く,北海道や東北の一部にアイヌ語地名が残るが,鹿児島の地でその説を唱えることには無理があるので本稿では採用しない。何故ならアイヌ語説のかなり前からの地名が多いからである。

                       

小松帯刀屋敷跡「山を登ると尾畔園と雄風亭につながる」

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