給黎(喜入)の地名由来
喜入と言えばやはり昭和44年から操業した喜入石油基地操業であろう。学生の頃,大型タンカーが錦江湾に入ってくる姿を見るとその大きさに驚き,鹿児島県が世界と貿易をする場になったことに誇りを感じていました。
喜入の歴史
喜入地域の歴史は平安末期に始まります。この時期に薩摩平氏の伊作有道が給黎城に入り,「給黎」と名乗ったことに始まります。城は旧麓(もとふもと)の西丘陵にありました。
給黎の地は,室町期の1411年,島津一族の伊集院頼久の所領となりましたが,1414年に島津8代久豊が給黎城を攻めたものの成果を得られず利あらずと鹿児島に引き上げました。その途中,この地で肥後球磨の相良氏の援軍を得て勢いを取り戻し,再び駒を返して給黎城の頼久を攻め勝利しました。これを祝し,この地を「駒返り」と呼ぶようになり,「給黎」を「喜入」に改めたそうです。
なお,駒返りの場所は,国道沿いのコンクリート工場近くのJR瀬々串駅と中名駅の中間点付近の草平踏切付近です。
その後,島津庶流の喜入氏が6代の頃に鹿児島市永吉へ転封となり,1595年に喜入の地は肝付氏の領有となりました。それ以来,代々肝付氏の居城となりました。1653年には掛持地頭制が始まり,4代領主の兼屋が鹿児島城下に移る際に,麓と地頭屋敷を琵琶山麓(喜入小学校近く)に移すまで,ここが旧麓として政治の中心的役割を果たしていました。
「旧麓(もとふもと)」という名称は,肝付氏の居館が北側の中心地に移転した際に,新たな麓と屋敷が設けられたことから,旧来の麓と区別するために呼ばれるようになったものと考えられています。
平安期の延喜式と和名抄
➊ 喜入の地名については,平安期に作られた法令集『延喜式』や辞書『和名抄』に岐比禮(給黎)郡の地名が見られます。平安末には,多禰有道がこの地区に居を構え,地名から給黎と名乗ったと伝えられています。その後,室町時代に島津氏が支配する領地となりました。しかし,地名本来の由来について触れた資料はほとんどないため,ここで考察してみたいと思います。なお,これはあくまでも私見であることをお断りしておきます。
・ 高隈連山や桜島の前を帆船が行き来する景色
❷ 「岐比禮(きひれ)」(和名抄)から,後に「給黎(きゅうれい)」という地名が定着していきました。給黎や喜入の地名由来を考察する場合,「岐・比」は万葉仮名であるのに対して,「禮・給・黎・喜・入」は万葉仮名ではなく,漢字の音や意味が重要になってきます。『延喜式』は当時の地方行政区画や特産物を知る書物ですが,給黎は「きゅうれい」と読むべきであり,新たに開墾した給田の給黎「穀物の多い給田」も考えられますが,時代的に合わないと思われます。
喜入は後の当て字ですが,給黎と共に「好字二字令」の勅令の趣旨に沿った瑞祥地名であると考えられます。地名は本来,地形や土地の特徴などを表すことが多いですが,奈良初期の「好字二字令」発布以来,多くの地名で当て字が多く使われ,本来の由来が失われてきました。中国にならい,地名や山岳名まで縁起の良い漢字二文字に置き換えられました。漢字一字や三字の地名も国府の役人が無理やり変更していったようです。地名が一度登録されると,例え私領内であっても勝手に変えることは難しかったのです。
❸ 以上のことを踏まえ,本来の地名由来に多い地形に絞って考察すると,喜入地区は西側の険しい山地から千貫平など尾根や斜面を形成した地形です。そこから海へと傾斜した丘陵地は,数多くの小さな河川により浸食されてできた谷状の地形をなしています。台地の谷や迫(さこ),水流,浸食谷,低湿地などの地形的特徴が見られます。
錦江湾と山地に挟まれ,現在の低地住宅地の多くは,江戸期まで海が入り込み,平野部が少ない地形が多く見られます。喜入地区の城の多くは,海岸沿いの小高い山に築かれていたようです。古代,薩摩半島は山地に阻まれ,街道が非常に少なかったため,荘園領主たちも海上交通によって移動していたことが想像されます。
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