地名散策「①頴娃町郡」

 頴娃町は,東シナ海に面した風光明媚な場所で,南薩山地の縁から広がる台地や山岳,河川,海岸線など,美しい自然と歴史に恵まれたところです。この地域には,荷辛路(にからじ),鬼口(おにぐち),平丹花(ひらたんが),一氏(ひとうじ),雪丸(ゆきまる),耳原(みみはら),次下(しか),蓮子(はすし),飯伏(いぶし)など,古くて難解な地名や字名,苗字が残っています。

 南薩の地は中央から遠く離れており,多くの私的開墾地が存在するため,大規模な開発が行われなかった場所です。そのため,古くからの地名が多く残り,それらの地名がそのまま苗字として使われ続けているのです。

 地名の由来には多くの説があり,口承や地理,歴史,民族に関わるものが多いですが,文献や資料が少なく,本来の由来が正確に分かっているものは極めて少ないです。また,古くからの地名は万葉仮名での表記や嘉名が多く,当て字の漢字から作られた口承や伝説で地名が語られていることもあります。

 南九州市の頴娃町の大字は①郡,②牧之内,③御領,④別府,⑤上別府の五つです。地名は地形の特徴から付けられることが多く,郷土誌や明治期の字図,地名辞典などの基本的な資料をもとに,その地に立ち,自然(地形)地名の立場から私見を交え考察してみたいと思います。

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頴娃町郡の地名

① 鬼口

 鬼の付く地名にはいくつかの説があります。例えば,古墳近くの「鬼塚」は「御塚(おんつか~りっぱな墓)」が訛ったものとされています。また,山岳信仰の修行岩場に多く見られる「鬼」は,「隠密(おんみつ)」の「オン(隠)」に由来し,姿を隠す鬼から発生したという説もあります。これらの岩場は鬼が出そうな迫力のある高い山に位置していることが多いです。

・ 鬼口近くの前ノ嶽

 鬼口の場合,矢筈火山群の一連の奇岩・怪岩が露出した地形を指します。鬼口近くの瀬平の碑文には,瀬平は矢筈嶽から連なる山地が海に入り込む断崖難所であり,「巍々たる岩畔」と記されています。中国では高い山を「魏・巍(ギ)」と呼び,火山性の岩がむき出しになっているその塊の岩がある山頂を「巍山」と言います。日本では,岩肌がゴツゴツした高い山のことを「巍」の字の一部を使って「鬼」と形容し,陰陽道と仏教が習合する中で,次第に地名として使われるようになりました。

物袋の地名由来

② 物袋

 物袋は開聞町の地名ですが,頴娃との境界を「物袋(モッテ)」と言います。地形的には,矢筈岳からの尾根が海岸に迫り,防風林に挟まれた狭い地形で,海岸線が袋状に入野道地につながっています。地名の場合,「ふくろ」と読むことが多いですが,「てい」と読むのは,布袋(ほてい)と同じく「もってい」が訛ったものかもしれません。袋の付く地名は,山や河川に囲まれた袋状の地形を示します。

 瀬平からの眺望では,海に浮かぶ開聞山麓まで続く海面が入江状に入り込み,袋状になった地域が見えます。多くの地名では「フクロ」と読むのに対し,音読みの「テイ」にしたのは不思議です。地名はその時代ごとのはやりがあくまで私見ですが,「モッテ」の表記は,「面袋(モティ)」または「面手(モテ)」から来たのではないかと思います。

・ 物袋(入江状に入り込んだ海岸線)

 開聞郷土誌によると,「天智天皇が御下幸された際,太宰府に命じて造らせた方十町の壮麗な宮殿(給田)で,天皇はこの宮に三十余年滞在された。その後,大宮姫の着付けや髪結いなどをする女官が物袋に住んでいたため,『物袋御前』と呼ばれていた。女官たちは髪結いの櫛を袋に入れて近くの川で洗っていたので,この地名が付いた」と記されています。物袋という地名の由来については,明確な説明がなく伝説の域を脱していません。考えられる転訛には以下のものが挙げられます。

 ①面手(凪の海水面が広がる場所)

 ②面出(水が引く湿地帯の開拓地)

 ③藻袋(海草に覆われた袋状の地形)

 ④茂木(海側に草木が繁茂した浦)

 ⑤茂手(茅が生い茂る土地)

 また,海草が多い場所で「モツレル」~絡み合った状態)とテ(崩壊地の突き出た所)や東シナ海の強風に水面(みなも)が揺れる意味の転訛も考えられます。

③ 平丹花

 平丹花について,平は平地ではなく古語で傾斜地を意味する「比良」の当て字であり,丹は段丘や台地を指します。つまり,段丘性の傾斜地を意味しています。たわんだ地形で,麓の山側に位置する平丹花(タン~台地・谷)は,タミ(タムの転でたわんだ地形)の台地の傾斜地とも考えられます。

 また,旦過とは朝早く発つ意味で,禅宗系の修行僧の宿泊施設を指す全国的な地名です。行商人が宿泊する旦過に集まり,商品交換の市場を開くことがありました。山岳信仰修験僧の集まる山が近くにある場所でも見られます。頴娃の場合,大野岳や矢筈岳の山岳信仰に由来する地名であると考えられます。平丹花近くの道は,荷辛路峠と今和泉街道(志戸・大野岳麓を経由し指宿小牧へ)が分岐する街道筋であり,三俣からは知覧へ通じる頴娃麓への交通の要所となっています。

④ 集川

 集川は,大野岳と荒平山の谷合から流れる約4.6キロの川です。南薩台地の特徴として,傾斜が大きく,雨水は一気に流れるため,普段は水量が乏しいですが,河床は礫岩が多く,雨期には集中豪雨で滝となります。中流には潮鶴滝,上滝,中滝があり,牧野溝,下ノ門溝,開撫溝,八反田溝などの用水路に給水しています。河口付近には岩州が連なり,海草が生育しています。

・集川潮鶴瀑(下瀑)

 『三国名勝図絵』には,潮鶴瀑(下瀑)と中瀑(市道から降りる小路がなく,地元の人でも訪れないため名勝地には適さない)の二つの絵図と集川の紹介があります。集川は頴娃郷から鹿児島城下への最短経路であり,藩役の往来も多かったと思われます。郡村には三つの滝があり,下流を潮鶴瀑と呼びます。頴娃麓の地頭館より北東(鬼門)に位置する川です。集川は支流が少なく,「集まる川」ではありません。むしろ,頴娃麓の山峰が近く,尾根が迫っている地形であり,崩壊地を意味する古語の「アズ」と「マル」から転訛したものではないかと考えられます。

⑤ 志戸・浦芝原

 志戸(シド)は湿地や川の下流,水に浸かりやすい場所を意味します。浦芝原(裏芝原)の「浦(裏)」は表裏の裏で,町の反対側にある山奥を指します。志戸(シド)は湿地のことを意味し,集川沿いの水にかかりやすい地を指します。浦芝原の「浦(裏)」は山奥を意味し,山奥の芝草の生える急傾斜地を指します。

 藩は牧之内近くで馬牛の生産を奨励し,頴娃も牧場を設けていました。これらの馬は主に軍事用ではなく,運搬や農耕用として多く使われました。広大な丘陵台地の多い南薩地区は牧場に適していました。牧内は牧場に沿った地区名であり,「内」とは川内と同じく,寄り添うという意味です。

⑥ 荷辛路

 荷辛路(ニカ)は,しわになったような地形を指すか,二俣や新しいを意味します。「ラジ」は側方や裏の「ラ」と,路の「ジ」を意味し,開聞町から段崖を越えて頴娃町に至る峠道のことです。浦路(ラジ)の「浦」は湊の浦ではなく,表裏の「裏」を意味し,町から見て山の裏側(山奥)を指します。荷辛からは,海産物や塩辛い荷物を知覧に運んだ塩街道という解釈も考えられます。

矢筈岳の異なる山容

⑦ 矢筈岳(ヤハズ)

 長い川や高い山などは,広範囲にまたがり各地域での呼び名が異なることが多いです。しかし,江戸・明治期に入り地名等が地図などに整備されると,河川や山岳などの呼び名が統一されました。自ずと山岳名などは遠くから見た山容が重要となってきたのです。その一つが矢筈岳で,南薩火山群に属する火山で,「矢筈」とは矢の端で弦にかける部分のことです。その形から二つの頂を持つ山を指すことが多いです。矢筈岳は遠くから目立つため,昔から漁師が漁場を特定する山当て(交差法)の目印として利用し,豊漁を願い信仰の対象にもなっていました。古くから開聞岳や佐多岬,竹島,硫黄島,国見岳などと同様に山当てに利用されていたのです。

 頴娃町内から見える矢筈岳について見ると,矢筈岳が最も矢筈の形に見えるのは,次の写真では③の九玉から見た矢筈岳です。青戸側からは二こぶの形をしているため,ラクダ山,鞍山,おっぱい山などと呼ばれているそうです。頴娃図書館側から見ると矢筈には見えず,独立峰に見えるので,旧御領村の庄屋があった九玉側からの呼び名ではないかと考えられます。また,麓からは近すぎて矢筈の形を確認できず,別府側からは東シナ海にデコボコに滑り込むようにつながっています。

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