地名散策「④頴娃町別府」

頴娃町別府の地名

 743年に発布された墾田永年私財法により,多くの寺社や貴族,地方の有力者が私有地の開墾に取り組みました。平安末期以降,この法の下で寺社の荘園に属し,新たに開墾された土地は「別府」と呼ばれました。これは本庄の官省符とは「別の免符」を受けたもので,特別の符宣(例えば,大宰府などから発せられた特別な法律)によって,貴族や有力寺社の領地として成立し,租税等が免除された特別区を指します。このような地名は,大分県の別府市や鹿児島県など,都から離れた九州地方に多く見られます。鹿児島では,島津氏が三州統一を果たすまで存在した薩摩平氏の流れを引く川辺一族が,荘園の役人として加世田の別府城に入ったことが,頴娃町別府の由来の一つとされています。

① 石垣

 石垣川は,流域内で万田川,綿打川,石垣川と名称が異なっていました。かつて河口から入り込んだ岸が港として利用されていた頃に,石垣で護岸を築いたことが地名の由来とされています。別府の石垣浦は,日本史上重要な出来事の地です。第十回遣唐使船(阿倍仲麻呂や鑑真を乗せた帰国の遣唐使船一行)の第四船が漂着した場所であり,第二船の鑑真は坊津に到着しましたが,第四船は数ヶ月後に石垣浦に到達しました。

② 次下(シカ)

 古老によれば,次下はかつて「スガ」と呼ばれていたそうで,全国に多く見られる「須賀」と同様に浜辺の地名であるとされています。「州処」が語源で,川州や海岸で砂が丘状になった地形を指します。現在は住宅街ですが,もともとは海岸河口近くの砂地であり,地名の「シカ」は「石処」や「スカ(須賀・洲処)」といった意味から転訛した可能性があります。また,「シト」や「シカ(湿地,川の下流,下り船,方位,漁港)」といった意味からも由来が考えられます。

 江戸初期に掛持地頭制が導入される際,藩庁から外城に文書や廻文を郷から郷へ次に渡す宿次(しゅくつぎ)制度が設けられました。この制度では便送方法や道筋が決められ,地頭や領主の仮屋近くに宿次所が設けられました。次下の近くや耳原の街道沿いには「中次」という字名も残っています。南薩地区では,山川から頴娃を経由して北の知覧へ,さらに川辺から鹿籠(枕崎)や坊津へとつながっており,石垣浦は藩の重要な湊として,陸路と海路を結ぶ地であったことが伺えます。

③ 水成川

 「水成川」は「水無川」と呼ばれることもありますが,三国名勝図絵には「滝水が常に鳴るので水鳴川という」と記されています。数カ所に滝があり,梅雨期などの増水時には滝壺に落ちる水音が地響きのように響いていたと伝えられています。近くには「塩屋」の字名もあり,「塩屋」とは「塩母屋(しおぼや)」のことで,塩を製造する小屋を意味します。海に近いこの地では朝早くから塩炊きが盛んに行われており,良質な塩が生産されていました。

 平安中期,小倉百人一首で知られる能因法師が頴娃の水成川を訪れたとされています。能因法師は全国を旅し,「能因歌枕(和歌の名勝地一覧本)」を作成し,後の歌壇に大きな影響を与えました。その歌枕の中で,東郷の司野や阿久根の母子島と並ぶ薩摩五ヶ所の一つとして水成川が挙げられていると言われています。

④ 蓮子・摺木

 「蓮子」は,斜め前を意味する「はす向かい」に由来していますが,ここでの「はす」は傾斜地を指し,水成川によって侵食された地形を示しています。また,「蓮子」は蓮の花の佳名を使っており,阿弥陀様の蓮の花に関する伝説が伝わっています。

 「摺木」は,台地の端が河川などの侵食によってこすられ,盆地状の地形になった地域を指します。「スル(摺)」という言葉から,崩壊地形や摺り鉢状の窪地を表していると考えられます。畑かん事業が行われる前の南薩台地は起伏が多く,河川によって浸食された窪地や傾斜地が多かったです。

⑤ 耳原(ミミハラ)・小原

 江戸期の資料には「御領村民原(みんばい)」という地名があり,明治初期の「輯製二十万分一図解説」には「大耳原」と「小耳原」の字名が記されています。これらは「大耳原(大原門)」と「小耳原(小原門)」に分かれていたことを示しています。加治佐川と水成川の間に広がる台地で,西牟田,冷水,大川田などの字名が残っており,水利が良好で比較的開発に適していました。ここでの「原」は,開墾地を指す「墾田(はりた)」の意味で,新たに開墾された田畑を示しています。草が生い茂り耕作されていない平地を指す言葉で,元々は加治佐川を水源とする開墾地のことを言います。

 「耳」の部分は,崩壊地で河川に浸食された地形を指すこともあります。「耳」は顔の端にあたり,地名としては端や縁,隅などの意味になります。文字通り,加治佐川で知覧との境に位置する御領村の端にあたります。江戸期の島津資料「張昴奇遇」にも「耳原(民原)」の地名が記載されており,戦国期から「ミンバイ」と呼ばれていたことが分かります。「民原」は方言から当て字で「みんばい」となり,民原の字を当てたものです。張昴は,秀吉の征韓の役で活躍した通訳で,倭寇によって耳原に連れてこられた中国人です。耳原の農民の家に仮住まいし,後に領主頴娃久虎の家来となり,中国と薩摩との通訳として活躍しました。

 門割制度は薩摩藩独特の農民統治制度で,明治以降も土地所有制度に移行し,字や地名,苗字として残っています。耳原地区では,現在でも自治会の班単位を「門(カド)」と呼び,高田,大原,福元,福永の四門が存在します。冠婚葬祭などの地域行事は,門単位で行われています。また,江戸期に作られたと伝わる「耳原おどり」という郷土芸能が残っており,その内容は「年貢高を決める検地の場面で,横目の不正に名主兄弟が立ち向かう」というもので,昭和後期まで青壮年の男たちによって踊られていました。

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