大分市の金剛宝戎寺「雪舟アトリエ」

 1470年,雪舟は万寿寺の桂庵玄樹を訪ねて大分にやってきたようです。(一説には入明以来の友,桂庵玄樹と行動を共にした或いは,桂庵の後任外交担当)彼は万寿寺の近くの高台にある寺院に画楼を建て,一時期そこに住んでいたそうです。今回の大きな目的は,桂庵玄樹や雪舟の足跡をたどるために大分市の万寿寺や日出町の松屋寺を訪れることでした。

・ 大友氏館跡庭園

大友氏庭園跡の南蛮BVNGO交流館

 初日には,今回の旅でもう一つ楽しみにしていた大友氏館跡庭園に行きました。大分市内には宗麟にまつわる観光地が少ないと感じていたので,庭園を見て胸が高まりました。

・ 大友屋敷のイメージ図

 南蛮BVNGO交流館の紹介映像にあるような邸宅を再現すれば素晴らしい観光地になると思いますが,関係各庁の許可を得るのは難しいのだそうです。史跡整備担当の方に,大分での今回の旅の目的である雪舟の足跡について尋ねたところ,彼がしばらく滞在していた清瀧山金剛宝戒寺について教えていただきました。

・ 金剛宝戒寺

上原館跡

 上原館跡は、豊後の守護であった大友氏の居館跡で,大規模な土塁や空堀に囲まれた高い防御性を備えた屋敷です。戦国時代には,高崎山山頂の高崎城とともに大内氏の軍事的役割を担う重要な施設として戦時に利用されていた山城の一部のようです。館公園のすぐ下の家の方にオートバイで墓地公園や弥栄神社,市内が見渡せる場所など案内していただきました。本当にありがとうございました。

・ 上原館跡

 寺のパンフレットによると,当寺は727年に聖武天皇の勅願を受け,奈良時代の有名な僧侶行基によって創建された大分県でも由緒ある古刹のようです。この寺院は,寺領三万坪を有し,金堂,塔,講堂の大伽藍と六十区の坊舎を配し,大門や中門も備えた壮観なもので,非常に大きな寺院であると言われています。

画聖雪舟「天開図画楼跡」

 上原館跡から上野墓地公園側に進むと,明治以来の名門校,県立大分上野丘高校が見えてきました。ちょっと寄り道して校門に入ると,大分県一の伝統校の雰囲気が漂ってきました。政治家や学者など多くの人材を輩出した名門校,やはり何かが違いますね。

・ 県立大分上野丘高校

 学校を後に山手に進むと,真言宗の清龍山金剛宝戒寺という大きな寺院があります。元々この寺は南西の平地にありましたが,水害の恐れから,1307年に現地に移転したそうです。お待ちかねの雪舟の記念碑がありました。石碑に刻まれた画聖雪舟「天開図画楼跡」の文字が悠久の歴史を伝えてくれます。

雪舟アトリエの場所は何処

・ 画聖雪舟「天開図画楼跡」

 先のパンフレットに,1476年,雪舟のアトリエを訪ねた呆夫(こうふ)良心和尚が,天開図画楼の場所について記した説明がありました。

・市内の眺望が急に現れるアトリエ?

 「雪舟殿は上野台地の西北の隅にある金剛宝戎寺の壇ノ本(戎壇院址)に一つの小さなやぐらを作って住んでいた。そこは目の前に広大な青海原が広がり,背後には久住の山々が連なり,左上にはそびえ立つ西山城が見え,丘陵の龍ケ鼻の右下には大分川が二つに分かれて流れる。このような場所に位置し,刻々と変わる眺望はまさに天開の景色である。よって天開図画楼と名付けた。」とあります。 

 お寺の方に聞いてもこのアトリエが何処なのかは分からないそうです。しかし,海抜6~70メートルのここら一帯からは,大友氏屋敷跡や万寿寺など当時の主要な建物が2~3キロ範囲内に一望できます。雪舟の特異な鳥瞰図が描けそうで,疑い始めるときりがないですね。

~呆夫良心和尚の日記より~ ※ 少し訳を変えています。

・ 上野大地から覗く大分市街地 

 金剛宝戎寺の山手側には,弥栄(やさか)神社という由緒ある古い神社がありました。創建は奈良時代の771年で,鎌倉時代に、大友氏初代の能直が京都の八坂神社を勧請して再興したそうです。大友氏の時代には,祇園祭りで大いに賑わいましたが,1586年の島津軍による府内侵攻により社殿が消失したと伝えられています。江戸時代には祇園祭りが見事復活し,城下の二大祭りと呼ばれるようになったそうです。

・ 弥栄神社

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