大隅国桑原郡から薩摩国鹿児島郡へ編入
花尾山山頂から東西に直線で約1.5キロ離れた場所に,吉田町と郡山町の両方に花尾神社があります。これらの神社は共に丹後局を祭っていますが,江戸時代に藩によって祭神を合祀されたものと考えられています。もともと,郡山と吉田は花尾山を境として,薩摩国と大隅国に分かれていました。
牟礼岡の牧神様「巨巌」
花尾山は古くから山岳信仰の対象とされており,かつては修験者の行場も存在していたといいます。また,修験者の役目の一つに国境警備があったとされ,花尾山や三重岳は両郷からの修験者が多く修行していた伝承も残っています。
・牟礼岡の牧神様と呼ばれる「巨巌」
吉田町の花尾神社は,この地を治める吉田氏(息長氏)に関わる神社です。三国名勝図絵に,牟禮岡は宮之浦町にあって吉野牧に属しています。牟禮岡の頂上には牟禮大明神の石祠がありこの地の牧神として崇敬されています。石祠には1685年3月と刻まれていて,華尾(花尾)八社大明神祠が本城村にあり,御神体は木像8体と鏡です。鏡には1480年の銘があり、「大檀那息長氏泰清并孝清」「大願主權律師主萬」「作者權律師快教」と記されています。中世までは郡山町花尾神社とは繋がりがないようです。江戸期に木像神体とともに合祀したのでしょう。
・左「牟礼ヶ岡大明神」(1728年)と右「馬頭観音」(1685年)
大檀那の息長(おきなが)氏とは、大友姓で日向諸懸郡の三俣院を治めていた一族のようです。執印氏との繋がりから国境警備のために大隅正八幡宮領の吉田院に移り,吉田氏を名乗った一族のようです。
・花尾山と三重岳で分かれていた国境
花尾の地名由来
郡山郷土史によると,花尾山の名称の由来は「花尾山は薩摩満家院厚地村の山岳名です。この山の山頂には熊野権現が鎮座しており,修験者たちが祭日に野ツツジや山ツツジなどたくさんの花を供えていました。元々山頂から南北の峯,麓まで花が多く咲いていたため,花尾と呼ばれていました。」と記されています。
本来,地名は他の地域と判別できるようにするため,どこにでも咲く草花の名前や風雨などの自然現象は地名として使用することは避けられてきました。しかし現在では,桜ヶ丘のように花の名前に由来する地名も増えてきました。ただし,この場合でも江戸期に広範囲の地図が登場すると「〇〇国の〇〇郷の桜ヶ丘」のように長くなってしまいます。
地名学の立場から言えば,地名の「花」は「鼻」や「端」を意味することが多く,全国的に高い山や町の境に多く見られる地名です。花尾山もその例であり,薩摩国と大隅国の境界(端)として意味合いが強いのかもしれません。
県神道青年会の「ふるさとのお社」によれば,郡山町の花尾神社は建保6年(1218年)に忠久公が守護職として下向した際,花尾山の麓に御堂を建てたのが始まりとされています。祭神は頼朝公と丹後局であり,忠久公は養父である惟宗広言と丹後局を薩摩に迎え,広言を市来の地頭に任じ,丹後局には厚地・東俣村を与えてここに居を構えたと伝えられています。しかし,史実では丹後局も実父の惟宗広言も薩摩に下向したことはなく,やはり伝説の域を出ません。