夫婦での大学挑戦

新たな仕事

 叔父のヤミの手伝いを終えた母は,4月から公的機関で働くことになりました。書道の特技を生かし,浄書や資料の記録・整理といった仕事に就くことができたのです。

 昭和20年代後半になると,戦後の混乱も少しずつ落ち着き始めました。叔父も本来の食品の卸売業と販売に戻り,会社はようやく活気を取り戻しました。母の父(祖父)も県庁を早期退職した後,叔父とともに始めた卸の事業も軌道に乗り,安定した収入を得られるようになっていきました。

 戦時中からの長い年月,母は長女としてずっと走り続けてきました。一日たりとも気を抜くことができなかったのです。それまで家族のために働き続けてきた母が,「ようやく,自分のために働けるようになり,初めて安心と希望が持てるようになった」と,日記に綴られていました。

 新しい仕事にも少しずつ慣れ,心にも時間にも,ようやく余裕が生まれてきました。そして一年後,母は休みを取り,戦時中に亡くなった祖母や,戦地で命を落とした親戚たちの墓参りに久しぶりに故郷に帰ることができたのです。

 しかし,母の帰りを待っていた親族からは,父の土地が放置されたままになっており,近隣の農家から「土地が荒れて迷惑している」との苦情が出ているため,早急に対応してほしいと強く懇願されました。父に相談したところ,「新しい事業に取り組んでおり,対応する余裕がない」との返答だったそうです。その他にも叔母が大病で看病する人がいないなど,母には関係ないことまで舞い込んできました。このようなことが幾つも重なり,またしても母(長女)に難題が降りかかります。土地を貸すにしても,或いは売却するにしても,手続きや対応に追われる日々となり,仕事を続けることが難しい状況だったそうです。

10年ぶりの父との再会

 一方私の父は,祖父が亡くなったのを機に,神戸での会社勤めを辞め,田舎に戻ってきました。当初は葬儀を済ませたらすぐに職場へ戻るつもりだったようですが,実家には広大な田畑や山林があり,それらを相続するには農家として身を置く必要がありました。戦後の農地改革の影響もあって,農業委員会の審査や税制の問題が立ちはだかり,農業をしないと不利な状況だったのです。

 とはいえ,父は子どもの頃から農作業を手伝った程度で,いわゆる「素人農家」でした。ちょうどその頃,母もまた戦中・戦後の混乱で祖母の葬式ができないままになっており,墓参りを兼ねて田舎に帰省していました。

両親の結婚

 そんな時,父が母を訪ねてきたのです。二人は尋常小学校から8年間を共に過ごした同級生で,10年ぶりの再会でした。

 その頃父は,祖母が大病を患って療養しており,看病をしていたのです。母も近所で顔なじみということもあって,時折看病を手伝うようになったそうです。母と同じように,父の家には幼い兄弟が何人もおり,いつしか母は,父の家の家事の手伝いをするようになります。

   ~中略~ 

 そして,気づけばそのまま結婚へと至ったのです。戦後よくある話ですが,祖母が亡くなると,母はそのまま農家としての生活を始めました。

 なお,母の「自分史」では,この結婚に至るまでの道のりがひとつの山場として,丁寧に描かれています。思い出深いエピソードも多く,いずれ紹介できればと思っていますが,今回はそこにはあまり触れず,端折って話を進めたいと思います。

農業の失敗

 しかし,両親ともに農業の経験が乏しく,連作障害や害虫被害など次々と問題が発生し,まさにお手上げ状態だったといいます。収穫をしようとしていた日に風水害で全滅ということもあったそうです。

 ちようどその頃,毎日のように忙しく重労働でしたので,最初の子どもは,慣れない農作業で無理がたたって流産してしまいました。子どもを守れなかったことがショックで,体調がすぐれなくても休めない農業は絶対だめだと思ったそうです。

大学へのチャレンジ

 そこで母は,父親(祖父)に現状を相談しました。すると祖父は,「まだ若いのだから,田畑は人に貸して,もう一度大学からやり直しても遅くはない。これから学歴社会が始まるので挑戦してごらん」と助言してくれたそうです。また祖父は,弟が青山師範学校(東京学芸大学)を卒業し,世田谷区の小学校長をしていたので教員免許を取るための大学や履修方法について細かに連絡を取っていたそうです。

 父はその言葉に心を動かされながらも,20代後半から大学を受けなおし,教員を目指すことに不安を感じ,決断をためらっていました。そんなとき,母がはっきりとこう言ったのです。

 「私にはもう農業を続ける自信はない。しかし,あなたが教員になるというのなら,私は応援するよ。あなたは大学の授業に専念して,生活費は私が稼ぐから」母のその一言が,父の背中を押しました。母はヤミ市での経験から都会での仕事をやり抜く自信があったのです。そして,夫婦で教員への道を決心し歩み始めたのです。

※ 次回は「東京での厳しい生活」について

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