1 泉 芳朗(本名敏登)の年表
(1) 教員の道をスタート
戦後、昭和21年2月2日、北緯30度線以南のトカラ列島(昭和27年2月10日復帰)および奄美群島がアメリカの統治下におかれました。この時、十島村は三島村と分断され、7島になりました。昭和28年12月25日には本土に復帰しました。「奄美復帰運動の父」泉芳朗は、明治38年3月18日に伊仙村面縄で生まれています。
大正13年、鹿児島第二師範学校(現在の鹿児島大学)を卒業しました。同じく詩人の副田凱馬とは同級生で、同年20歳で赤木名尋常高等小学校の訓導(教諭職)になりましたが、演説会を開く問題を起こし、1年で古仁屋小学校へ転任させられました。昭和元年、22歳で母校の面縄小学校の訓導になりました。
昭和3年(24歳)に詩人になることを決意し、東京で先生をしながら(渋谷の千駄ヶ谷小学校),詩の活動を続けました。昭和9年(30歳)から6年間で詩集「光は漏れている」・「詩生活」など50冊の詩誌を出版しました。昭和14年(35歳)、健康を害し、また戦争で詩が自由に書けなくなり、郷里伊仙に帰りました。この間、詩人として母校の面縄尋常小学校や卒業した伊仙国民学校(小・中)の校歌の作詞を依頼されています。
① 面縄小校歌(作詞:泉芳朗 作曲:山本浩良) 昭和10年制定 ② 伊仙小校歌(作詞:泉芳朗・作曲:田上義人)昭和14年6月8日制定 ③ 伊仙中校歌(作詞:泉芳朗・作曲:宗鳳悦) ※ この他奄美小,名瀬小,古仁屋高校,徳之島高校など数多い。 |
(2) 再び学校現場に復帰
昭和16年(37歳)には伊仙国民学校の代用教員として着任しました。当時、大島での師範卒業者は少なく、昭和17年(38歳)には伊仙小学校の訓導兼教頭として任命されました。昭和18年(39歳)から3年間は神之嶺国民学校の校長を歴任しています。
※ 37歳から3年間で三段跳びの昇進「代用教員・訓導(教頭)・校長」 昭和21年(42歳)には鹿児島県視学(大島教育事務所指導主事)に就任しました。昭和24年(45歳)には奄美文芸家協会を創立し、月刊誌「自由」を刊行しました。昭和26年(47歳)には「奄美大島日本復帰協議会議長」として就任し、復帰運動の先頭に立ちました。
(3) 市長就任と復帰運動への挑戦
昭和27年(48歳)、芳朗は名瀬市長に当選しました。昭和28年(49歳)8月1日、芳朗は高千穂神社で120時間にわたる断食祈願に入りました。これに呼応して、各町村が断食を実施し、学童たちの断食運動まで広がりました。
昭和28年12月25日、米国の占領下での非暴力運動により、「奄美日本復帰」を勝ち取り、返還が実現しました。昭和34年4月9日(54歳)、詩集刊行のための上京中に急逝しました。
参考・引用「鹿児島県資料 泉 芳朗」大島郡内の郷土誌及び小学校学校要覧より
昭和17年度の伊仙国民学校 卒業写真のエピソード
2 伊仙国民学校の代用教員・教頭時代
昭和16年(37歳)、芳朗は伊仙国民学校の代用教員に任命されました。しかし、彼は島外で教員として働いており、当時、一度奄美を離れ本土で働き戻ってきた者は「大和帰り」として冷たく扱われる時期があったため、当初職員間での評判は良くありませんでした。彼は師範を出ていたにもかかわらず、代用教員にしかなれなかったことがその一因でした。特に、それまでの教頭であり11歳年上のK教頭は、いきなり交代させられたと感じていたのです。しかし,この時代の教頭は法的な職名ではなく、訓導の中からの充て職であり、一年で交代することもよくあることでした。
一方、K教頭は、弁護士を目指して県の第四中学校(川辺高校)を卒業後、法律専門学校に合格していました。親の病気で法律の道を諦め、教員免許を取得し、島に帰ってきて訓導として働いていました。その後、島内のいくつかの学校で勤務した後、母校の伊仙小に戻ってきたので、校内で一番長い勤務経験がありました。彼は人一倍努力家であり、プライドも高かったようです。K教頭は「お前に島の教育は任せられない」と、何かにつけて反目しあっていました。しかし、泉は勤務実績のある師範出身の優秀な先生であり、詩人でもありました。村の教育委員会からすれば、泉を選ぶのは当然の選択だったのかもしれません。当時、離島の学校で師範卒は今の東大卒のように扱われ、20代で校長を経験する者もいたほどでした。
昭和17年度には、太平洋戦争が勃発しており、奄美の先生方は地理的に離島から戦場になることを恐れて、子どもたちの内地(本土)への疎開について内々で話題に上がっていたと言います。終戦の年には、徳之島からの疎開も始まりましたが、この時期はまだ警察(特高)に察知されると難しいことになっていたはずです。しかし、当時のK教頭にはY子を含む7人の子どもがいました。当然、K教頭も同じことを考えており、泉が疎開を含めて鹿児島市への進学について親身になって話してくれたことで、二人の関係も徐々に和らいでいきました。
「沖縄や徳之島が戦場になったら動けんよ。航路が封鎖される前に内地(鹿児島市)の学校に行かした方がいいよ。Y子は頭がいいので女子興業学校(市立女子高)へ行かせばいいが…」と泉の強い勧めもあり、進学を決めたのでした。泉のこの言葉に感銘を受け、K教頭は学校を辞めて鹿児島県庁に再就職し、家族を呼び寄せました。Y子も念願の女子興業学校に入学できたことに感謝しました。Y子の母方は泉とは遠縁に当たり、泉の助言が大きかったと言います。昭和17年3月、着の身着のまま兄弟たちと鹿児島行きの船に乗りました。船員からは敵機の機銃掃射から身を守る方法やボートの乗り方について何度も教えられたと言います。
やっとの思いで鹿児島に着き、小学生の兄弟たちを引き連れて住所を訪ね歩きましたが、同じような家が多く見つけることができませんでした。空腹で泣き出す兄弟たちをなだめ、近くの床屋(今の中州陸橋近く)に尋ねに入ったところ、鏡越しに父の姿を見つけると、皆で抱き合って喜んだそうです。
3 昭和20年6月17日の空襲(女子興業学校)
鹿児島市立女子興業學校前景(共研公園)
Y子が3年の時、昭和20年6月17日の上之園町にあった女子興業学校の校舎は鹿児島大空襲により焼失しました。Y子は武町に自宅があったので、難を逃れましたが、その夜寄宿舎に残っていた地方の出身の生徒13名が亡くなりました。翌朝、友人や後輩たちのことが心配になり学校に行こうとしたそうですが、西駅の周りまで火が消えておらず、立ち寄ることすらできなかったそうです。
※ 6月17日の空襲一日の死者数は、鹿児島市の8回にわたる空襲による死者3,329人の実に7割近くにあたり、最大で最も悲惨な爆撃でした。負傷者や行方不明者、焼き出された者なども含め、合計で11万人を超える悲惨な被害でした。女子高の空襲でも寄宿舎にいた若い女子生徒が亡くなり、現在でも慰霊祭が行われています。
この大空襲からしばらく経った夏の日の出来事。鹿児島の市街地はほぼ焼野原で、特に港から今のナポリ通り、西鹿児島駅付近は高い建物も破壊され、見る影もありませんでした。Y子は魚の買い出しに向かうため西駅から上之園を通り港に向かっていました。突然、垂水方面からグラマンが飛んできました。西駅に延びる道に沿って機銃掃射をしながら低空飛行をしてきたのです。パイロットの顔がはっきり見えたが、あっという間に駅の上で旋回してまたやってきたのです。今度は数メートル前から狙って掃射してきました。そして一発が当時、持っていた黒いコウモリ傘を貫通して跳ね返った石で左腕を負傷しました(後に左手の中指と薬指が曲がる後遺症が残りました)。幸い本人は大した怪我ではまりませんでしたが、近くには倒れている人もいたそうです。
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