前回の投稿(2024年8月19日,父の戦争体験 戦艦大和の護衛艦「涼月」)で紹介しましたが,義父は涼月と共に佐世保に帰還し,暫く滞在していました。
佐世保と義父

昭和20年4月8日,坊津沖海戦において多くの戦友を失いながらも,「涼月」とともに奇跡の生還を果たした義父は,船首を失い燃え上がる船体の中で半死半生の目に遭いながら佐世保に帰還しました。帰還後しばらくは,負傷兵の世話や残務処理,また昭和20年6月の佐世保空襲によって市内の多くの建物が焼失し,しばらくの間はその復旧作業に追われていたそうです。
長崎の原子爆弾投下については,8月9日の午前中,原爆が投下された長崎から約45キロ離れた佐世保港の復旧作業中だった隊員と共に,南の空に光る強い閃光と共に辺りが急に明るくなり,直後にキノコ雲がどんどん天に昇っていくのが見えたそうです。
戦後は佐世保鎮守府や市街地の戦災復旧作業などに従事するなど,しばらくは佐世保にとどまっていて,終戦から3年後,ようやく故郷鹿屋に帰ることができたのです。
昭和23年に地元に帰り,役場に勤めていました。昭和29年1月の結婚を機に役場を辞め,再び佐世保の通信隊に入隊することにしたそうです。

昭和29年7月に「海上自衛隊」が発足し,翌年には「佐世保通信隊」に入隊して佐世保に赴任いたしました。その後,佐世保市民病院で妻が生まれました。

8月6日
妻の誕生日は何と広島原爆投下と同じ8月6日でした。当時は佐世保郊外の日宇町にある商店(以前訪れた際,当時のまま残っていました)の2階を間借りし,家族4人での暮らしが始まりました。

それから7年後,鹿屋に「航空自衛隊鹿屋基地」が新設されることとなり,父の転勤願いが叶い,念願だった故郷・鹿屋へ家族とともに戻ることができたのです。義父はそのとき,心から安堵したと話していました。

・佐世保港の護衛艦
私は,妻の誕生日をよく忘れてしまうことがありました。夏休みの学校で研修や作業中に,テレビやラジオから広島の平和記念式典の様子が流れてくると,誕生日を思い出すことが多かったのです。帰り道に,慌てて誕生日の贈り物を買って帰ることもしばしばありました。

妻自身も,小さい頃から毎年テレビで厳かに行われる慰霊祭の映像を見ると,「ああ,今日は自分の誕生日なんだ」と感じていたそうです。また,この手の話はよくあることで,例えばクリスマスが誕生日の人が子どもの頃には,「今日は町中の人が自分の誕生日を祝ってくれている」と思っていた,という話と似たようなことなのでしょう。
