学生時代の6人グループ
学生時代,初めての講義の日。まだ右も左も分からない中,たまたま近くにいた6人でそのまま懇親会に行くことになりました。それが,私たち6人グループの出会いでした。
居酒屋で自己紹介が始まると,最初のA君が「神奈川県川崎市出身のAです。高校では硬式テニスをしていました」と,ごく普通の流れで話し始めました。ところが,次の席順のB君が「信州松本市出身のBです」と自己紹介。さらに続くC君も「出雲出身のCです」と言ったことで,私は「もしかして旧国名で自己紹介する流れなのかな?」と思い始めました。
そして次のDさんが「信州長野市出身のDです」と言ったのを聞き,私は迷わず「薩摩の鹿児島から来ました」と自己紹介。すると,みんながどっと笑い出したので,「あれ,違ったのかな?」と少し不安に思いました。
最後のE君が「名古屋出身のEです」と言うと,私はすかさず「そこは“尾張名古屋”だろう」とツッコミを入れると,一同大爆笑。なにげない自己紹介のひと幕が,私たちの距離を一気に縮めてくれました。

・安曇野観光協会ホームページより
わたしはそれまで,長野県民が普通に自分の出身地を「信州」と呼んでいることを知りませんでした。まさか,そんな小さな県民文化の違いが,私たちをこんなにも近づけてくれるとは思いませんでした。
それから私たちはすっかり仲良くなり,飲み会や旅行など,何かと行動を共にするようになりました。特に,長野県出身者が二人いたこともあり,安曇野や戸隠高原でキャンプをしたり,登山を楽しんだりする機会が増えました。

・戸隠観光協会ホームページより
信州の山々の美しさに心を奪われるうちに,長野の人々が自分の故郷を深く愛し,自然と愛着を込めて「信州」と呼ぶのだろうと感じるようになりました。信州という特別な響きと思いがそこにはあり,私も自然と信州の地が大好きになったのです。
名古屋市出身の友人E君のこと
大学を卒業したあと,私たち6人はそれぞれ地元に帰り,社会人として働き始めました。卒業から3年ほど経ったある日,神奈川に住むA君から一本の電話がかかってきました。
「(名古屋出身の)E君が亡くなった」という知らせでした。
名古屋出身のE君とは,学生時代を共に過ごした大切な友人でした。その知らせを聞いた瞬間,言葉を失いました。
E君は,生まれつき身体に障がいがあり,いつも木製の松葉杖で通っていました。今のような軽量のアルミ製ではなく,ずっしりと重たい木製の杖。両手でそれを支えながら,肩にはショルダーバッグを背負っていました。雨の日には傘ではなく雨合羽を身にまとい,毎日変わらず大学にやってきた姿が今でも蘇ります。

そんな姿を間近で見て,「障がい者は弱い存在だ」という自分の中にあった無意識の偏見がどれほど浅はかなものであったかを思い知らされたのです。
最寄り駅から大学までの道のりでは,講義が一緒だった友人たちが自然と手助けをするようになりました。荷物を持ったり,傘をさしかけたり,ときには冗談を言い合い,大声で笑ったりした日々が懐かしく思い出されます。
彼は成績も優秀で,何より努力を惜しまない人でした。卒業後,愛知県の銀行に就職したと聞いたときも,納得の思いでした。当時はまだ「障がい者雇用の制度」が整っていない時代でした。そんな中,実力で採用され,しかも融資業務など主要な部署を任されていたほどだったそうです。
卒業後も,私たちは時おり電話で連絡を取り合っていました。互いの近況を語り合い,悩みを打ち明け,励まし合ってきました。
散歩中の事故
そんな彼が,三重県桑名市へ出張したある朝,事故は起きました。大きな仕事を終え,一息ついたのでしょうか,一人で土手を散歩していたといいます。綺麗な川の流れを間近で見ようと,最後の階段を降りようとしたとき,松葉杖の先が滑ってしまったのでしょう。前日からの雨で,足元の階段は濡れていたそうです。水かさも増しており,彼はそのまま帰らぬ人となりました。
その知らせが私たちのもとに届いたのは,少し時間が経ってからのことでした。銀行からの捜索依頼により,翌日になってようやく発見されたと聞きました。最後の別れも言えないまま,彼は静かに旅立ってしまいました。

・水と緑の館・展望タワーからの河川域
このたび,名古屋に所用があり,ふと彼のことを思い出しました。事故のあった川の名前まではわかりませんでしたが,友人から聞いたかつての話をもとに調べてみると,それが三重県桑名市の揖斐川だと推測して,足を運ぶことにしました。

・揖斐川にかかる伊勢大橋
静かな川辺に立ち,学生時代の彼の姿を思い出しながら,御神酒を手向けました。澄んだ川面に映る空を見つめながら,清らかに生きた彼の人生を思い,手を合わせました。ご冥福をお祈りいたします。