
・久木野城登山口
水俣城の支城である久木野城と宝河内城を訪れましたが深い森林に阻まれ,城跡には行けませんでした。今から400年以上前の1580年5月13日,新納忠元らが大口から水俣城の支城の山城,宝河内城へ攻め入りました。この川沿いの街道を通って薩摩と相良氏の争いが繰り広げられました。

忠元はさきがけとして,3000の兵を率いて大口から水俣城手前の山城,宝河内城へ攻め込みました。宝河内城の守備の兵はごく僅かであり,忠元の猛攻によりわずか1日で落城しました。薩摩の武将たちは水俣城の支城を攻め込みました。8月19日には水俣城を包囲し,城攻めが始まりました。その後,新納忠元や以久らは水俣城の北,熊之牟礼に陣取っていました。

・宝河内城
いよいよ水俣城を包囲し城攻めか始まろうとしていました。県史料集によれば,忠元は城の落ちる様を詠った句を矢文にして射かけました。それに応えた水俣城主・犬童頼安は,戦の前に連歌の応酬をした有名なエピソードが残っています。
「秋風に 水俣落つる 木の葉かな よせてはしづむ うら浪の月」という前句に対して,頼安は「寄せては沈む 月の浦波」と鮮やかな返しの矢文を射返されてきたのです。島津の大軍勢の前に,これ以上の抵抗は無意味と悟った頼安はそれから1ヶ月後に和睦を申し出たそうです。また相良氏の本拠地人吉城からも降伏と葦北沿岸の領地,佐数,湯ノ浦,津奈木を割輪することを条件に,島津家に降参しました。ここに肥後の地も島津の支配下になったのです。

・ 地獄谷の火山噴火の柱状節理