都城県の成立と県境

高原町の霞神社(白蛇様)

 宮崎県高原町の極楽温泉や湯之元温泉の炭酸湯にはまっており,片道2時間ほどかけて毎月訪れています。周辺にはたくさんの神社や公園などの観光地があり,楽しいひとときを過ごせます。今回,霧島連山の周囲に点在する由緒ある霧島六所権現社について投稿いたします。

目まぐるしい宮崎県高原町の変遷

・ 明治4年行政区画地図

 南九州の中央部,霧島山麓に位置する高原町は,その立地の重要性から,13世紀初頭に島津久豊が霧島六所権現社に知行を寄進したことをきっかけに,大きく動き出しました。その後,北原氏や伊東氏の支配を経て,1576年には島津義久が高原城を攻め落とし,島津領内から多くの移住者が移り住みました。そして,秀吉の国割以降,江戸時代を通じて薩摩藩領の東の境界として位置づけられました。

 特に明治初期の混迷期には,由緒ある霧島連山を背負うこの地で領有問題が発生しました。幕末から明治維新にかけて,新政府と地方,新しい県や旧藩の思惑,そして武士階級の動きが複雑に絡み合い,非常に目まぐるしい時期となりました。天孫降臨の地,霧島の境界問題は両県の県境と絡み合い,後々に大きな遺恨を残すことになりました

 明治4年7月の廃藩置県により,高原町は①鹿児島県に所属しましたが,11月の九州諸県の統廃合により②都城県として再スタートを切りました。その後,明治6年1月に美々津県と都城県が合併して③宮崎県が誕生しましたが,明治9年8月には旧藩士族の勢力を削ぐ狙いから再び④鹿児島県に編入されました。最終的に,明治16年5月に鹿児島県から分かれ,⑤宮崎県として復活しました。このような変遷は,明治政府の政策によって人口や財政面で全国を平均的な県にするために行われたとされていますが,この12年にも満たない期間は非常に動きが激しく,一番苦労したのは高原の住民たちだったのです。

「宮崎県の父」川越進

 このような時期に,鹿児島県の支配から脱却し,旧日向国人としての「アイデンティティ」を取り戻すために登場したのが川越進です。

 川越を中心に結成された「日州親睦会」のメンバーたちは国内各地を訪ね,失われた宮崎県の再配置を住民に訴え,運動の輪を広げていきました。旧薩摩藩領だった都城などの有志は,県令の意を受けた役人の工作により離脱しましたが,賛同の意思はある旨を川越らに伝えています。この結束が大きな要因となり,特に都城島津家の役割が非常に大きかったそうです。結果として,高千穂峰の山頂が高原町に属することは当然の結果と言えるでしょう。

県境の確定

 紆余曲折を経て,明治16年に太政大臣の令達で最終的に宮崎県との県境が確定しました。

 「今般宮崎県を置きます。日向国諸県郡の内,志布志郷・大崎郷・松山郷を除き,同国一円を管轄してください。鹿児島県より受取が出来るように取り計らうことを通達します。」(明治16年5月9日 太政大臣 三條實美)

・韓国岳は霧島市・えびの市・小林市の境

・ 歪に入り込んだ県境

天孫降臨の地

 地図の県境を見ると,歪に入り込んだ県境は御鉢までで,本来の高千穂峰には至っていません。霧島神宮は元々高千穂峰山頂にありましたが,噴火により現在地に移されたそうです。1814年の白尾國柱による「神代三山陵」から明治7年の明治天皇のご裁可まで,明治政府の役人や両県の担当者で県境の話は重要な話題でした。

「天孫降臨の地,日向の襲(隼人の本拠地)の高千穂峰」は両県にとって大切な山で共に強い思惑がありました。鹿児島との県境(御鉢の縁)から直線で僅か500mにも満たない高千穂峰までの距離を埋められず,明治16年5月に高千穂峰の山頂は宮崎県高原町となりました。

 御鉢近くには霧島神宮古宮の天孫降臨神籬斎場(鹿児島)や本宮(宮崎県高原)があるため,高千穂峰までは両県の境であって欲しかったと思います。明治期の国境線の設定過程では多くの火種となり,引き直しや飛び地が現れることもありました。私の記憶では,中学校時代に宮崎県との県境は韓国岳と高千穂峰を結んだ線であると教わったように思い込んでいました。

・都城県(大隅半島と宮崎県南西部)

・大浪池側から見た御鉢と高千穂峰 

山岳信仰の霧島連山

 霞神社の境内の案内板によると,霞神社(白蛇様)より南西にそびえる霧島連山は,古くから山岳信仰の地であり,薩摩・日向の人々の信仰の中心地でした。その霧島連山の麓に位置する由緒ある神社が霞神社です。歴代藩主の崇敬も篤く,島津第25代藩主重豪公も石灯籠などを奉納しています。

寺院保護の理由

 島津氏が寺院を保護した大きな理由は,領国運営のためで,寺院が民衆に対する影響力を持っていたからです。また,中国伝来の漢文の書籍が多く所蔵されており,学問に秀でた僧侶たちが学問や知識,医療などの技術を提供していました。江戸幕府がキリスト教を排除する目的で始めた檀家制度(寺請制度)により,寺院は戸籍を管理する役割も担い,次第に民衆を厳しく支配するようになりました。そのことが後の住民による廃仏毀釈に繋がっていくのです

 この神社の「霞」とは修験道の縄張りを意味し,かつての六所権現参りを行う前に修験者たちが霞神社に詣でて,白蛇様の棲息する山頂岩座に修行の無事と世の安泰を祈願したそうです。

・ 霞神社

・ 三国名勝図絵より

 三国名勝図絵によると地頭館より東へ1里(約4キロ)に位置する入来村霞岡にありました。元々の姿・本地は馬頭観音です。小高い丘の南斜面にある石巌の割れ目には五色の蛇が住んでおり,この蛇を神として崇め,別に祠を設けています。

霧島六所権現

 この霞神社は夷守神社との合祀により,霧島六所権現の一つとして数えられることもあります。霧島六所権現には「①霧島神宮」「②霧島東神社」「③狭野神社」「④東霧島神社」「⑤霧島岑神社」「⑥夷守神社」が含まれていました。

 六所権現参りの参拝者はまずここに参拝してから他の神社へ向かうことが多いそうです。その際に蛇を見かけたら神の縁があったとされ,特に喜ばれていたそうです。祭祀は3月15日と9月15日に行われ,祭式では白砂が奉納されます。1815年には重豪公が神徳院を別当とし,郡山の花尾大権現社の大宮司に祭祀を管轄させていました。なお,⑥夷守神社は霧島山の噴火により焼失し,明治7年に住民の総意で⑤霧島岑神社に合祀され,現在は五社になっています。

※三国名勝図絵に描かれた霧島六所権現

 この神社は霞権現と称され,大己貴尊,小彦名尊,保食尊を祀っています。古くから畜産,縁結び,商売繁盛の神として知られており,神殿裏の岩窟に住む白蛇を拝むと幸運に恵まれると言われています。例祭日は毎年4月15日です。

・南西斜面の絶景「霧島連山の眺め」

・ 関連記事

 【R5】7月16号の「神代三山陵の考証」

 【R6】7月13号の「狭野神社」および「霧島岑神社」も併せてご覧ください。

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