小さな教育長

幼稚園がなく山学校

 昭和30年代,小学校に入る前のことです。近くに幼稚園がなかったため,私の遊び場は「山学校」さながら,父の務める学校でした。その頃の離島の学校は空襲で焼け落ちた校舎跡の一部など,戦後の混乱の名残がまだ残り,今では考えられないほど大らかな時代だったのです。私たちは父が勤務していた中学校の隣にある教職員住宅に住んでいました。そこは若い先生たちが集まる独身寮のような場所でもありました。仕事で遅くなり,夕食も取れない独身の先生たちを母がよく招いていたのです。食卓には焼酎が並び,飲み始めるとそのまま泊まることもよくありました。翌朝,2〜3人の若い先生たちと一緒に朝食をとり,私も一緒に「出勤?」するような日常でした。

※ 史料「本県の公立幼稚園拡充計画」について 

 戦後しばらくの間,本県の離島では幼稚園の数は非常に少なく,役場の所在地に数カ所の私立幼稚園が存在するのみでした。これらの幼稚園は裕福な家庭の子息が通う程度であったと記憶しています。昭和31年に文部省によって「幼稚園設置基準」が示されたことにより,幼稚園の普及が急速に進みました。しかし,私が住んでいた校区には幼稚園はなく,最寄りの幼稚園までは車で20分程度の距離がありました。
 私自身教職経験の中で3回,幼稚園併設の学校での勤務経験があり,校長は園長を兼務します。本県では昭和45年に「公立幼稚園拡充計画」を策定しましたが,既に私立幼稚園が各地の中心部に設置されていたため,公立幼稚園は過疎化が進む地域に新設されることが多かったのです。平成20年度の公立幼稚園の数は約90園であり,一番多い大島地区では小学校数の約4割に相当する公立幼稚園がありますが,少ない地区では公立幼稚園が1園しかない地区もあるようです。
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・ 離島の中学校

 学校の職員室や教室は,お気に入りの遊び場でした。先生や生徒たちも私の存在にすっかり慣れていて,一緒にいてもまったく気にする様子はありませんでした。私が廊下を通り,教室に入っても,誰も何も言わずに笑顔で授業を続けていました。長く居座ると,先生たちは私に10円のお小遣いを渡し,私を近くの駄菓子屋に行かせるので,おやつを買って自宅に帰るのがいつもの日課でした。若い女性の先生たちは私の足音が聞こえると,恥ずかしそうに教室の扉を少し開け,手だけを伸ばして10円玉をそっと差し出してくれたのです。お小遣いさえもらえれば,それで満足でした。毎日,教室や職員室を巡って行くことから,いつしか「教育長」と呼ばれるようになっていたそうです。自宅の隣にある学校は,私にとって特別な遊び場のような場所だったのです。

わが家はお見合いの場

 勤務が終了し帰宅するまでの間,若い先生たちも自然と集まるようになり,今でいう「集団見合いの場」となっていました。女性の先生たちは,母に気になる男性の先生のことをこっそり打ち明けていたそうです。そして日曜日になると,私たち家族に加え二人の先生たちも一緒に出かけるようになったのです。

 その学校で父が勤めていのはわずか3年間だけでしたが,その間に二組の先生が結婚しました。これを機に,母の若い先生たちを結びつける「お見合い活動」はさらに活発になっていきました。転勤を重ねるたびにその頻度は増し,世話好きの母の評判は広まっていきました。いつしか我が家の土日の午前中は,お見合い会場と化していました。結果として,母はこれまでに300組近くの結婚をまとめ上げるまでになったのです。

・ 離島の小・中併設校

20世紀梨の味

 私が川辺のある小学校の3年生の頃,初めて梨(二十世紀梨)を食べました。父が務める中学校の若い女性の先生が校庭で遊んでいた私のところまで,わざわざ持ってきてくれたのです。冷蔵庫で冷やされたその梨はこの世のものとは思えないほど美味しく,「水分が多く,口の中で溶けるような味わい」で,私にとって生涯忘れられない味となりました。

 今では二十世紀梨をあまり見かけなくなり,スーパーで見つけるとついまとめ買いをしてしまいます。市場では幸水や豊水といった品種が主流となり,二十世紀梨は糖度が低く酸味が強いため,生産量は全体の10%にも満たないそうです。ちなみに,その梨をくれた若い女性の先生も,母の紹介で結婚したのでした。

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