尾畔の名の由来
尾畔の地名は,「山の尾が延びて田畔に接していた」ということが由来とされています。江戸初期には,現在の本薫寺の近くの山腹に,藩主光久が築かせた島津家の別邸がありました。この辺りは,鷹狩りの鷹を飼育しており,尾畔奉行とか尾畔御仮屋などと呼ばれ下級役人が配置されていました。明治の初めまで,大きな金網の中で雁や鴨が飼育されていたそうです。また,甲突川沿いの鷹師町は,鷹匠が住んでいたことが,地名の由来になっているそうです。
雄風亭とは
雄風亭は,尾畔山山頂の一反(300坪)程の平地に東屋を建てた展望所です。尾畔園には別邸があり,山の斜面に桜や紅葉などの木々を植えた景勝地です。雄風亭は尾畔園の東南峰の頂上に位置し,海抜90メートルの高台からは桜島を真正面に一望し,北には八重山から花尾山,南には高隈連山まで見渡すことができる絶景地でした。明治初期まで,近くの稲荷神社付近には人気の料理屋が2〜3軒あり,藩主斉彬は観光客のために人力車(タクシー)を待機させていたそうです。
江戸後期には,斉彬や篤姫,西郷,大久保,維新の獅子たちも,故郷に別れを告げるために訪れていました。小松帯刀はこの地に別荘を建て,よく遊覧していたようです。小松邸に宿泊した坂本龍馬も,この屈指の名勝地に登っていたと考えられます。また,庶民もこの地に参詣し,東屋に座って桜島の景色や季節の移り変わりを楽しんでいました。現在も,高さ約1.5メートルの自然石に碑文が刻まれた碑が残っています。
※ 現代では桜島を眺める高台は多数存在しますが,当時の城山は城の敷地内で一般の人が遊覧できる場所は,ここ雄風亭など数か所に限られていました。
尾畔から見える桜島・城山,花尾山・三重嶽の眺望
碑文の概略
碑文の内容は,造士館教授の山本正誼が中国の有名な漢詩「宋玉の風賦」の中の語句から「雄風」と名づけ,「君主が領民を治めていくうえでの心構え」が前後左右4面に刻まれています。
「その昔,昭襄王(始皇帝の曾祖父)が祖父の離宮で遊んでいたところ,気ままにやってくる者がいました。王は胸襟を開いてこの者と話をしました。ここの爽やかな風は,庶民と一緒に楽しむ場所です。その人は,庶民が安らぎを得て,楽しめることは王様にしかできないことであるとも言いました。更に,王様の問いかけに対して,風には二種類あると述べました。『雄風』は清涼で,それに当たった者の病は癒え,『雌風』は,温かくそれに当たれば,病となって発熱すると伝わっています。よって王道は『夏に涼しく,冬に温かい風の気持ちで政治を行う』ことが重要なことですと説きました。この雄風亭からの絶景はこの逸話の如く,人々が安らぎ楽しめる場所でした。統治者と庶民が偶然会い楽しむことができれば,重豪公のお考えの通りになりましょう。
1787年 藩校造士館教授,山本正誼が記す。」当時の重豪が藩政に取り組む「開化政策」に繋がる碑文です。
※ かつてこの石碑は山頂広場にあった築山の上に設置されていて,近くの子どもたちの遊び場でした。