雄風亭石碑の全碑文と和訳
漢文
府学教授臣 山本正誼謹撰并書 前太守中将公、嘗作一亭於尾畔、園東南峰之最高頂以為游、観之所、因命府学教授臣山本正誼名之於是、取宋玉風賦中語、名曰雄風、公曰其説何如、正誼対曰、昔楚襄王游蘭台、有風颯然而至者、王乃披襟而当之、曰快哉、此風寡人所与、庶人共之者耶、宋玉対曰、此独大王之風耳、庶民安得而共之、遂以大王雄風、庶人雌風之説、告焉、今臣之意猶玉之意、以為大、凡有風、至於斯亭者、皆我公之雄風也公曰、説尽於是而己耶、正誼対曰、唯唯請畢其辞可乎、公日可也、於是、乃言曰、夫風者起於青蘋之末、行於天地之間、不択貴賤高下、而加焉、曷甞有雌雄之別也哉、但人之所遇、有不同者、楚王遇之、所以為楽、故謂之雄風、庶人遇之所以為病故謂之雌風、鳴呼楚王之所以為楽 (表面) 与庶人之所 以為病者、非特風也、蓋玉之言、有寓意焉、然使楚王、所得之風足、以愈病析醒、発明耳目、果如玉之所言則、宣揮颺之鼓動 之以加国内之庶人、乃真可以為大王之雄風矣、而王亦曰、快哉此風、寡人所与庶人共者耶、蓋其心儀之矣而玉乃曰、庶人安得而共之何也、楚昭王亡鳥号之弓左右請求之、王曰、楚人失弓、楚人得之、何求之孔子、聞之曰、惜乎其不大也、人遺弓、人失之而巳、何必楚也、昭王失其宝弓而弗之求、其語亦、不為小矣、而孔子以為不大、倘使襄王私夫大塊噫気、以為我之所有也、則其小甚矣、是乃庶人之雌風、己烏足、以為大王之雄風也哉、而玉之言乃有如此者、豈反言以諷之者歟、抑又聞之、昔者舜弾五絃之琴、歌南風詩、而天下治、其詩曰、南風之薫兮、可以解吾民之慍兮、南風之時兮、可以阜吾民之財兮、大哉言也、向使襄王而知此道也、則楚国其庶幾乎、而王之言、曽未之及也、公曰、善於是録之、以為雄風亭、記亦足以尽名亭之義云、若夫亭上游観之美則、請俟他日記之 天明七年歳次丁未秋九月 (裏面) ※ 第七部「鹿児島の金石文」より |
和訳
藩校教授の山本正誼が謹んで選び故を書き記します。前の中将重豪公が,尾畔館の南東に当たる尾畔山の頂上に観光用の東屋を一棟造りました。その名の由来は藩校教授の山本正誼に命じました。彼は翡翠の風の中の言葉から取り,雄風と名付けました。民衆は山本が名づけた名を使いました。
昔,楚の襄王が蘭台(楚王の離宮)に旅をしました。その時,風と共にやってくる者たちがいました。王様のように襟を着けていたので挨拶すると,この風は未亡人や庶民と同じで,(癒すのは)唯一王様の風だけと言いました。王様の雄風,庶民の雌風で人々が平和に暮らせるとの諺を引用して,大きく考えると,今の意味は翡翠の意味と同じようですと教えてくれました。東屋にいる者には風が吹く所なので静かに耳を傾けてください。
私たちの領主様(重豪)と山本正誼,大衆も同じように言った。公日は尚更よいが,この青い浮き草の果てから始まり,高くも低くもない天と地の間を歩いてくると,何かが加わってきたみたいでした。男風と女風の違いがあるのは事実ですが,人々の出会い方には違いがあります。
楚王が彼に会ったので,彼はそれを雄風と呼び,病んでいる庶民が彼に会った理由でした。楚王は楽しんでいる所なのに,庶民が病む理由は特別な風ではなく,いわゆる女の風と呼ばれているもので,蓋玉の言葉には意味があるのです。楚王は,翡翠のような果実で,庶民の病が癒える風の元を見つけ出しました。それを振って,国民を励ますことを進めました。それは本当に,未亡人と庶民が分かち合う,王の雄風かもしれません。本当に好きなもので,幸せな風であると王は言いました。
庶民が平和に暮らす理由とは?楚の趙王は戦の弓で死んだのかと周りに尋ねました。楚の人々は弓を失いましたが,代わりに平和を手に入れました。孔子に何を尋ねるのでしょうか。大きくないのが残念ですが,人々は遺産を失いました。何故わざわざ趙王は貴重な弓を失ったのに,それを取り戻さなかったのでしょうか。彼の言葉も小さくはありませんでした。しかし,翔王は大人物だと皆が思うなら,孔子はそれは大したことではないと考えています。庶民の雌風や国王の威厳のある雄風もまた然りだと思います。翡翠の言葉は風刺的なのに,更にどのように皮肉なことを言うのですか。
・尾畔落雁