島口の方言札について《R6》2月8号

徳之島の想い出

 かつて勤務していた徳之島に30数年ぶりに訪れました。驚いたことに,新しい建物が立ち並び,道路が整備され,ますます見どころや観光地が増え,新鮮で美味しい店もたくさんできている印象でした。

・夜光貝のさしみ

 しかし,以前とは異なり,多くの人との会話の中で,方言やイントネーションが薄れ,本土の方と話しているかのような寂しい感覚に襲われました。かつての徳之島の方言や風土,独特の雰囲気が失われつつあるように感じました。(当時,大人は殆ど島口で話していた)

 パンフレットによると,徳之島の方言コンクール「島口・島唄・民謡の祭典」が今年で第38回を迎えるとのことです。私が勤務していた頃も,小学生の中で島口を話せる子は余りいなかった記憶があります。しかし,ある日,私が担任していた女の子が島口大会に出場することになり,休み時間に彼女が練習の成果を披露してくれました。彼女は長いセリフを流暢に話し,私やクラスメイトたちを感動させました。

・亀津の街並み

方言と公用語

 沖縄や奄美の方言は,消滅の危機に瀕している言語の一つです。かつて,奄美や沖縄の方言が話しにくい時代がありました。明治政府は本土の標準語普及を推進していました。この時,島口(島の言葉)も厳しい時代を迎えたようです。学校で方言を話した人は,「方言札」を首からぶら下げるという罰があったのです。この運動は昭和の中頃まで続き,テレビなどの影響も重なり,島の方言は次第に衰退していきました。

少数民族が多い国の公用語

 かつて勤務していた学校の外国語助手(ALT)が,国際交流の授業で自国のパキスタンを紹介する際の話です。パキスタンはかつてイギリスの植民地であったため,英語が公用語として広く使われていることを説明されました。さらに,パキスタンは少数民族が多く,隣に住む人でさえ,民族が異なると言葉が通じないことがあり,英語を使うしかない現状も述べられました。同じ国民であっても,コミュニケーションを図るために公用語(英語)が必要不可欠であるという厳しい現実を子供たちは納得した様子でした。

 日本の場合,全国どこでも言葉が通じるため,英語を小学校から習っていても,受験以外で覚える必要がないから,英語を使えないのもしれませんね。しかし,明治期の日本でも同じような状況があったのです。県(藩)が異なれば方言で言葉が通じないことが多いでした。特に,薩摩出身の政府役人たちはこの問題を痛感していました。このままでは富国強兵どころではないという危機感が広まりました。

 森有礼が日本語を廃止して英語を日本の国語に定めようと考えていたことや,大山巌と妻の捨松(会津藩出身)がお互いの言葉がまったく通じず,英語やフランス語を混ぜて会話をしていたエピソードは有名です。

・徳之島空港

方言札の想い出(学校よもやま話)

 私が小学校高学年まで,「方言札」が残っており,帰りの会が終わるまで,札が5枚以上ある者は居残り掃除をさせられていました。そこで帰りの会の最中,私は小さな声で隣の友人に「今日は公園に集合してね」と言うと,「野球か,何をすっとか?」と答えるので,すぐに「はいカード」と言って,札を相手に渡し,カードが4枚になり無罪放免になりました。友人が「わいはきっしゃんか(お前はやり方がきたない)」と言うので,はいもう一枚とカードを渡し,カードが3枚になるといった具合でした。そのため,この時間は皆必死でした。これが原因で大喧嘩になったことも度々ありました。

 しかし,2学期になり突然,「方言カード」がなくなりました。理由は覚えていませんが,しばらくして方言の面白さを教える授業も行われました。方言札運動は決して奄美や沖縄だけでなく全国的に行われていたのです。

・ムシロ瀬

 戦時中の公用語のエピソードも伝わっており,県内でも標準語教育を推進するために(大東亜共栄圏で日本語を公用語にする政策等),各地で方言を見直す運動が盛んであったそうです。徳之島でも,内地の学校を出た先生を中心に島口を見直す研究が行われていたそうです。

・金見崎からの眺め

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