島津氏縁の六地蔵塔(1)「小野聖之宮の六地蔵塔」【R5】7月18号

 日置市飯牟礼の農免道路沿いに木脇大炊介祐兄の墓碑があります。この人は,島津家15代貴久の幼少期から仕え,貴久の危機を救い,多くの戦いで戦功が挙げた人です。その恩賞として,戦略上の要衝であった恋之原,直木,竹之山の土地を与えられ,恋之原に住み,この地で亡くなりました。

 木脇祐兄は,「曽我兄弟の仇討ち」で知られる工藤祐経の子孫に当たります。鎌倉時代に日向に下向し,戦国大名日向伊東氏(飫肥藩主)から分かれた一族です。戦国時代,伊東家19代尹祐の長女と島津家12代忠治が政略結婚した際,祐兄の父祐夏は薩摩に随従し島津家家臣となりました。祐兄の武勇で一番有名なものが『清水城からの脱出劇』です。戦国期,日置・伊集院・伊作は島津忠良(日新公)が統治し,藩内でも有数の勢力を誇っていました。

・  木脇祐兄『清水城の脱出劇』

 その子貴久は,14代藩主勝久の養子となり,15代藩主として鹿児島の清水城に住んでいました。このことに反対していた出水の島津実久は,父忠良の留守を狙って清水城を攻め,貴久を抹殺しようとしました。

 ・三国名勝図絵の聖之宮

 木脇祐兄は,切腹を覚悟した貴久を説き伏せ,公の母と5人の家臣と共に夜陰に紛れて城を抜けだしました。小野村の園田清左衛門実明宅の裏山の聖之宮に貴久公をかくまい,栗之木平から坂の下辺りの田甫で戦い,実久軍を撃破しました。この勝利に歓喜の声を上げ,鼓を打ち鳴らしたのでこの一帯は「鼓ヶ筒」と呼ばれているそうです。

聖之宮

饅頭石

 後に貴久は,小野農協近くの激戦地に六地蔵塔(鹿児島・宮崎で全50基を建立)を建て,敵味方の戦死者の霊を供養しました。現在もこの地に2基残っています。聖之宮近くの六地蔵塔(あけぼの幼稚園の裏山)は山奥にあったため廃物稀釈の難を逃れて壊されずに綺麗に残っています。また,貴久はこの時の恩を忘れず,園田清左衛門の娘を17代義弘の夫人(18代家久の母親)として迎えました。小野村を脱した後は,敵勢力を避けながら,犬迫,栗之迫,竹之山,饅頭石,春山,柳ヶ迫(伊作峠),鬢石の山道をたどり,日添を経て,金峰山を南下,数日を費やし命からがら田布施城にたどり着くことができました。

鬢石

徳重神社13基の供養塔

 この反乱で貴久の命が助かったことは,群雄割拠の時代から戦国大名島津氏が登場した大きな節目として代々藩によって語り継がれています。JR上伊集院駅は,昭和20年代までは饅頭石駅と言う名称でした。また,伊作峠近くに鬢石という集落名があり,共にこの時,貴久公が岩の穴に溜まった水で頭髪を整えた伝説が残っています。

 時は経ち1619年,義弘公が85歳で亡くなると藩内で13名の殉死者が出ました。現在,徳重神社の境内に13基の供養塔があります。その中に,加治木で亡くなった木脇刑部左衛門祐秀の名があります。この人は,木脇祐兄4代目の子孫にあたる人で,島津義弘の側役(馬廻役)で関ヶ原の戦いでは殿を務めた生き残りの一人として武功をあげました。子孫は老中代、御使役、地頭、奉行など薩摩藩の要職を務めました。

小野聖之宮の六地蔵塔

第1面「地獄」

第2面「修羅」

第3面「餓鬼」

第4面「人道」

第5面「天道」

第6面「畜生」

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