日本の朱子学は,江戸時代に広まる以前に,すでに室町時代,桂庵玄樹によって薩摩で花開いていました。江戸期には,朱子学が幕府の官学として位置づけられ,全国の藩で採用されることで,さらに深化していきました。私も,これまでに頼山陽など有名な儒学者のゆかりの地を何カ所か訪れています。

・「頼山陽居室」~広島市中区の頼山陽史跡資料館
江戸時代の朱子学は,藤原惺窩(薩摩の訓点を盗用して広めたとされていますが,桂庵玄樹や薩南学派の訓点を広く紹介した儒学者)の門弟である林羅山や那波活所によって発展し,江戸幕府の学問として全国に広まりました。江戸中期の儒学者・荻生徂徠(1666~1728)は古学派として新たな流れを広め,それを受け継いだのが頼山陽(1780~1832)といわれています。
一方,江戸後期には本居宣長(1730~1801)などの国学者たちが,『古事記』や『万葉集』などの古典研究を通じて,日本固有の「道」を追求する学問が盛んになりました。頼山陽の考え方には,こうした時代の影響がうかがえます。薩摩藩士たちは,これらの思想に共鳴し,明治維新へと突き進んで行きました。
頼山陽とは
「鞭声粛粛 夜河を過る 曉に見る千兵の 大牙を擁するを 遺恨なり十年 一剣を磨き 流星光底 長蛇を逸す」この「川中島の合戦」を詠んだ有名な歌を作った人が頼山陽です。

江戸後期の学者で漢詩人でもある頼山陽は,1780年に大阪で生まれました。父は儒学者で詩人の頼春水,母は歌人でした。父が広島藩に朱子学者として招かれたため,一家は広島に移りました。
頼山陽は少年時代から詩文に優れ,周囲を驚かせました。10歳のときにこの屋敷に住み始め,父のもとで漢学の基礎をその後,江戸や京都に遊学し18歳で江戸の昌平黌で学びました。しかし,21歳で京都に脱藩したため,自邸に4年間幽閉されました。この間に読書に没頭し,後に代表作となる『日本外史』の構想を練ったといわれています。
この屋敷の離れで著述に専念し,幕末のベストセラー『日本外史』を完成させました。この書は幕末から明治維新にかけて大きな思想的影響を与え,多くの薩摩の志士たちに読まれました。
薩摩を訪れた頼山陽
頼山陽は薩摩を訪れて阿久根や川内などで詩文を残しています。江戸時代後期の漢学者・頼山陽は招かれて薩摩を訪れました。水俣から街道を進み,肥薩の国境「野間の関」に到着しましたが,通行を拒まれました。やむを得ず引き返し,その夜は茅屋に一泊しました。翌日,身分を改めて説明し,ようやく通過できました。
山陽は鹿児島におよそ二十日間滞在し,伊地知李幹や儒学者の鮫島白鶴(西郷南洲の師),五代五峰(五代友厚の父)など,維新の志士たちの親の世代にあたる薩摩藩士たちと交流しました。

頼山陽が川内で詠んだの詩文
頼山陽の詩文「巨川滔滔として海口を扼し 回看すれば畳嶺北斗をも衝く 此くの如き山河棄てて守らず 全国挙げて豎子の手に納められる」
・ 現代語訳:
大きな川(川内川)がどっと流れ,海の入口を押さえている。振り返れば,幾重にも重なる山々が,北斗星にまで届くようにそびえている。このように素晴らしい国土を守ろうともせず見捨ててしまった結果,天下全体が幼い子どものような未熟な者たちの手に委ねられてしまった。
この詩は,自然の壮大さとそれにふさわしいはずの国土が,正しく治められずにいる現状への嘆きや批判が込められています。「豎子(じゅし)」は,未熟な人物をさげすんで言う表現で,幕末の無能な為政者を指していると考えられます。山陽が現代の異国に晒された日本の状況(国政や企業のリーダーたち)をみたらどのような詩文を詠むのでしょうか。
薩摩川内市はたくさんの史跡「未来に繋ぐ貴重なもの」などに多くの予算をかけ,大切に守り継いでいます。感謝です。