徳之島の歴史「秋徳湊の戦い」《R6》2月1号

薩摩による奄美・徳之島・琉球侵攻図「最大の激戦地 秋徳湊の戦い」

 島津氏にとって琉球国を通した中国貿易による利益は重要でした。秀吉の朝鮮出兵により中国との関係は最悪で,唯一琉球との関係だけが続いていました。そこで慶長14年(1609)に琉球国に侵攻することになります。江戸初期の島津77万石近くの石高は琉球国12万石余りを合算したものなのです。島津氏による琉球支配の目的が、明国との冊封(進貢)貿易にあったことは明らかです。

・ 赤の点線が琉球侵攻航路図

 1609年3月4日、島津軍約3000名が山川湊を出航しました。九州制覇に失敗して以来、財政難に陥った島津氏は、倭寇(薩摩‧大隅‧種子島)や琉球貿易以来の南海交易に活路を求めるため、奄美・琉球を支配下に置くことを最大の目標としていました。樺山久高を総大将とした島津軍が75艘の軍船で、大島・沖永良部と次々に攻め込まれ、肝心な琉球本島ですら大軍勢の前にほとんど抵抗なく接収されていったのです。

・樺山久高夫婦の墓~琉球出兵の総大将,武功により出水や伊作の地頭となる。 

 その中で、徳之島だけは佐武良兼掟と思呉良兼兄弟が必死に奮戦したが、軍船からの鉄砲戦に負けてしまいました。秋徳湊に押し寄せ、浜辺から沖まで埋め尽くされました。この戦いで双方300名余りの犠牲者(殆どが武器を持たない島民)が出たと言われています。

 奄美大島をはじめ肝心な琉球本島(琉球王国)でさえ左程応戦しなかったのに、徳之島だけが戦い、多くの犠牲者を出したのは、多くの資料を読み解く中でもあまり検証がなされていないようです。一つには、徳之島を守備するように琉球から派遣された国王からの命を真摯に受け止めたのでしょう。掟兄弟は国王の命令がない以上、降伏できないと拒絶しました。「今日、我ら兄弟は死で琉球本国に報いよう」と言って戦死しました。4月5日には首里城が接収され、王府は簡単に降伏しました。山川湊を出て約1か月で陥落したのです。船による移動を考えると、殆ど難なく侵略されています。徳之島の多くの犠牲者を思うと、王府が奄美を犠牲にした対応は残念なものであると言わざるを得ません。

 「三家録由緒記」によると、佐武良兼と思呉良兼兄弟が地上戦では奮戦し、大軍を船に撤退させたそうです。しかし、船からの一斉射撃で射殺され、徳之島は降伏したという記録があります。

・ 掟兄弟と母(ノロ)の居住地跡(秋津神社)

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