徳之島の歴史「亀徳の秋津神社」《R6》2月6号

 琉球支配時代に王国が派遣した初代首里之衆から4代佐武良兼掟まで

 亀徳港の近くの高台には秋津神社があります。もともと,1562年に琉球王国から派遣された役人(首里之衆)でこの神社の近くに住んで徳之島の政治を行っていました。その後の琉球支配時代には,大親やノロの屋敷が殿地屋敷と呼ばれ,薩摩支配下になっても,徳之島の三町の大親をはじめ島役人を多く輩出しています。

 この地は古くから,地神として斉部加那支(イビガナシ)をアコウ(雀榕)の根に祀り,聖地として崇められてきました。明治時代に入り,祠を建立して秋津神社としましたが,イビガナシは,社屋の後方のアコウの根の中に残っていると言われています。神社の本殿は昭和49年に建築されたもので,内部には3つの自然石が安置され,それぞれがご神体として祀られています。中央には村の創世神,左にはノロ神,右には農耕神が祀られています。

初代から4代まで

① 首里之衆(初代大親)

 首里之衆は,琉球王国の高家(高位の家柄)から選ばれ,国王の重臣として徳之島の押役探題に任命されました。彼らは国王から金のカンザシと紫の頭巾を授かり,首里の港から小船に乗って,6人の護衛者と共に和瀬浦に上陸しました。そして,秋津神社近くの天険の地に拠点を築きました。

② 西世之主(2代大親)

 首里之衆の長男で徳之島の西側の天城町や伊仙町に子孫がたくさんいます。

③ 東ケ之主(3代大親)

 兄の西世之主の後を継ぎ,大親役を務めています。亀徳の佐安元所(秋津神社)に居を構え,男子2人と後妻との間に娘が一人生まれました。しかし,1608年に病没しました。この時,琉球王家は次の大親を決めておらず,王家の血を引く沖永良部の大親が徳之島も兼務することになりました。彼は東ケ之主の未亡人と再婚し,亀津に仮屋(役所)を建てて居を構えました。そして,この時に薩摩から数十隻の軍船が琉球征伐のために秋徳湊(亀徳)に押し寄せました。この戦で,二人の息子たち必死で戦い,戦死しました。

④ 佐武良兼掟

 徳之島の島主である東ケ之主の子で母は農路(ノロ)宮明になります。父が亡くなってから間もなく若年ながら掟役を務めていました。1609年の3月下旬に薩摩から琉球征伐があり、徳之島の秋徳港(亀徳港)に攻め寄せられました。必死に防戦しましたが、戦死しました。

 なお,亀徳では1609年に薩摩藩が琉球侵攻を行った際に「秋徳湊(あきとくみなと)の戦い」と呼ばれる激しい戦いがありました。そのとき村の政治を司っていたのは,掟兄弟と呼ばれていた二人の若者で,兄を佐武良兼掟(さぶらがねおきて),弟を坊太賀那(ぼうたがな)と言い,三代目島主東之主の息子達でした。攻め寄せてきた3,000人近い薩摩軍を港で迎え撃ち,手勢と共に果敢に戦ったものの力尽き,二人とも討ち死に,この時300名近い戦死者も出ていました。この二人の母は島主の妻でこの地のノロも務めていました。

琉球国の王統の変遷

王統 歴 代 国 王即 位年齢
(1)
舜天
王統
①舜天(しゅんてん)★奄美・琉球のグスク時代1187~123772
②舜馬順凞(しゅんばじゅんき)1238~124864
③義本(ぎほん)※徳之島首里之衆の先祖1249~1259
(2)
英祖
王統
①英祖(えいそ)※義本,王統を摂政英祖に譲る1260~129972
②大成(たいせい)※有力按司の出現1300~130862
③英慈(えいじ)1309~131346
④玉城(たまぐしく) 三山に分立時代1314~133641
⑤西威(せいい)1337~134922
(3)
察度
王統
①察度(さつと)※与論沖永良部,北山に帰順1350~139575
②武寧(ぶねい)※明国との交易始まる1396~1405
(4)
第一
尚氏
王統  
①尚思紹(ししょう) 1406~1421
②尚巴志(はつし)三山統一明より尚姓を賜る1422~143968
③尚忠(ちゅう)※1441大島琉球に帰順1440~144442
④尚思達(したつ)1445~144942
⑤尚金福(きんぷく)1450~145356
⑥尚泰久(たいきゅう)※側近の金丸が第二尚家1454~146046
⑦尚徳(とく)1461~146929
(5)
第二
尚氏
王統
①尚円(えん)※喜界島琉球に帰順1470~147662
②尚宣威(せんい)1477~147748
③尚真(しん)※ノロを組織化(祭政一致)1477~152662
④尚清(せい)1527~155559
⑤尚元(げん)徳之島琉球に帰順1556~157245
⑥尚永(えい)1573~158830
⑦尚寧(ねい)1609薩摩琉球攻1589~162057
⑧尚豊(ほう)1621~164051
⑨尚賢(けん)※中国より製糖法伝来1641~164723
⑩尚質(しつ)1648~166740
⑪尚貞(てい)1669~170665
⑫尚益(えき)※砂糖の買入始まる1710~171235
⑬尚敬(けい)1713~175152
⑭尚穆(ぼく)1752~179456
⑮尚温(おん)1795~180219
⑯尚成(せい)1803~18034
⑰尚灝(こう)1804~182748
⑱尚育(いく)1828~184735
⑲尚泰(たい) ※琉球処分1848~187959

三山分立時代

 英祖王統第4代玉城王の頃より王権が衰え、各地に有力按司が出現し、やがて北山(今帰仁村)中山(浦添・首里)南山(糸満市大里)の三つの地域にそれぞれ王が現れた。この時代を三山時代と称する。なお、これら三山はそれぞれ独立して明に朝貢し貿易を行っていた。

➊ 中山察度王統

 ・察度王統は、西威王の没後、群臣の推挙によって王となった察度が立てた王統。

❷ 北山怕尼芝王統

 ・怕尼芝王統は北山をまとめた羽地按司の怕尼芝が立てた王統。

❸ 南山大里王統 

 ・大里王統は南山をまとめた大里按司の承察度が立てた王統。

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