徳之島最初の医師

医師・佐喜間(さきま)

 佐喜間(1650~1707)は,首里之主一統の第5代大宝山の長男として1650年に生まれました。1666年,16歳の時に徳之島奉行第24代・柏原弥太右衛門尉の任期終了に伴い鹿児島へ同行しました。そこで3年間城下に滞在し,医者の資格を取得。髪を切り,名を琉安と改め島に帰りました。琉安は徳之島初の医者として島中を巡り診療に従事し多くの島民を救いました。

 その後,面縄間切恩納の与人役を命ぜられ,還俗して佐喜間と改め,役人として勤めました。留学中には示現流の皆伝免許状を授与されており,島の子どもたちに武術も教えていました。大宝山の長男でありながら当主を継がなかったのは,当時の医学を学ぶのは出家という形で寺院に入っていたからでしょう。江戸時代には医学部がなかったため,医師になるためにはどのような過程を経ていたのでしょうか。

 ・琉球王家の官位による髪指「徳之島事情」吉満義志信より 

日本の医学の変遷

 最先端の中国医学は仏教と共に日本に伝えられるようになりました。医療が一般民衆に広がったのは鎌倉時代になってからでした。臨済宗の開祖・栄西が中国に渡り,仏教の教えだけでなく医療も行える僧医となり,医療の知識を民衆レベルまで広めたのでした。室町時代後期には京都に医学校(啓迪院)が開かれ,多くの医師が誕生しました。医学書も漢文で書かれていたものが,平易な仮名交じり文で記述されるようになると,医学が徐々に日本各地に普及していきました。「ツムラ漢方の歴史」より

 室町末の鹿児島では,中国から倭寇に捕えられて薩摩に連れて来られた許三官など,医学の知識を持つ者が藩の侍医となっていました。江戸期になると,藩は彼らの弟子たちを中心に医師の資格を管理させていたようです。各郷の士族子弟を中心に医師を希望する者も増え,これを受け入れるための医学教育を行う専門施設が城下に設置されました。ここで学んだ者の中から優秀な医者は藩の推薦を得て,長崎や江戸の医療専門機関で修業し,優秀な医師として認められました。「鹿児島県の歴史」より

・ 冷水町の興国寺墓地

 汾陽理心(郭国安)許三官の弟子となって義久公に仕えました。

300年前の盗作?

 この医師佐喜間の経歴に記されている「出家や還俗,城下での医師の資格」などは本県の医学史を裏付ける補助資料になる筈です。医薬知識の元が漢籍であり,それに触れることが多かった僧侶が医師や薬師を兼ねていた名残とも言えます。

 この佐喜間は風流の嗜みもあって,秋徳の佐安元(秋津神社)で友人の古仲(井之川与人)や池城(亀津与人)と三人と歌詠みの会を催し次のような歌が残されています。

(1)「れんげ花心⑧ 肝もたな童よし⑨ あかのつかば⑥ あらてすてよ⑥」(旧恩納与人・佐喜間) 

(2)「春や花さかり⑧ 夏風の童⑧ 秋はてて⑤ 冬のきよらとめば⑨」(旧井之川与人・古仲)

(3)「とひろ屋に住へ⑧ はてろやに住へ⑧ 肝と肝さらめ⑧ 按司も下すも」(旧亀津与人・池城)

 ここでこの歌詠みの元になった琉歌について説明すると,そのルーツは琉球王国第二尚氏の時代,1531年から尚豊王代の1623年にかけて首里王府によって編纂された歌集「おもろさうし」に端を発します。琉歌は琉球文化圏で伝承される短い歌謡です。詠んだり,唄ったりする歌で奄美群島では島唄と呼ばれます。また琉歌は八音を中心に,五音・六音・七音を標準とする定型詩で,「八・八・八・六」を基本形とします。

 ところで,この「おもろさうし」には尚質王(1629~1668)の次の歌も収められています。

十尋屋にをても⑧ 八尋屋にをても⑧ 肝ど肝さらめ⑧ 按司も下司も⑥」(尚質王)

 意味は,「十尋屋や八尋屋の大きな家に住んでいても,身分に関係なく,住まいの大きさよりも心の持ち方が大切である」いうような意味です。

 ここで先に紹介した旧与人の池城作(?)③「とひろ屋に住へ⑧ はてろやに住へ⑧ 肝と肝さらめ⑧ 按司も下すも⑥」の歌はほぼ同じであり,盗作であろうか,それとも尚質王の歌を紹介したかったのか興味あるところですが,微妙に表現を変えている所が怪しいですね。400年たった現在のネット社会はすごいですね。 

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