初詣に千石天神社と護国神社,鹿児島神社に行ってきました。正月三が日を外したので参拝者も少なくゆっくりとお参りができました。天文館の千石天神社は,私が写真撮影している僅かな間に4~5組の方がお参りしていました。普段は余り気にも留めていなかった神社でしたので意外でした。

・ 千石天神社
一帯は伊勢殿屋敷跡

境内に伊勢殿屋敷跡の由来板と石柱があります。伊勢氏は,江戸の伊勢平氏の後裔にあたり,代々島津氏の国老職として仕えた一族で,家格「一所持格」6000石余りで上位の千石取りです。鹿児島千石馬場御着屋角にあった伊勢氏の屋敷跡地に千石天神社があります。付近には花岡・新城等の島津一門の千石取り屋敷が多かったので千石町の由来となりました。なお,二官橋通りを境に東と西に分かれており,城に近い方が家格が上位になるようです。
また,島津氏から末吉郷岩川村を与えられ私領としており,明治になり屋敷を大和屋に売り,岩川に移住しています。後にこの屋敷跡は花柳界に買われ大歓楽街となり今の天文館の元を作ったのです。江戸期の城下絵図には「伊勢雅楽屋敷」の名称が記され,現在の東千石町5~8番にあたり赤枠で囲んだ広い地域です。
千石天神社の由来
境内案内板によると,天神馬場通りの名稱の起源であり,藩政時代からこの通りにあって正徳3年(1713)4月の麑城の大火により,焼失した萩原天神を昭和12年当時の東千石町民の総意によって復興することが決議されました。以来1年間にわたる町内会長以下役員及び先輩有志諸氏の人力と全町民の一致協力により昭和13年4月現在地に朱塗りの神殿の完成を見ました。

・ 赤枠で囲んだ広い地域が屋敷跡
なお神霊は京都北野天満宮より分霊を頂きお祭りしたものであります。以来長きに渡り東千石町天神おつきや通りの守り神として,また学業の神様として広く市民の崇敬を受けてまいった御社であります。なお,当千石天神神社は過去の大東亜戦争による鹿児島大空襲に奇跡的に戦火をまぬがれましたことはまさしく神威あまねく処と申すほかなきことであります。商売繫盛・家内安全・健康祈願及び学業成就祈願に広く皆様のご参拝を願うところであります。
鹿児島や甲突川の由来となった神社
・ 宇治瀬神社(鹿児島神社)三国名勝図絵

鹿児島神社の御由緒によると,鹿児島神社は鹿児島一円の地主神と伝わっているそうです。今から1200年前の「日本三代実録」に,「薩摩国従五位下鹿児島神授従五位上」との神位昇叙の記録があるそうです。元々桜島近くの小島から桜島横山に移り,室町期に現在地に移ったそうで,「鹿児島・桜島」の呼称由来になったそうです。また当社の祭礼の月が「神月」で甲突川の地名由来になったとも言われているそうです。
宇治瀬大明神(鹿児島神社)は、かつて桜島沖の小島に鎮座しており,その島は「神瀬(かんぜ)」と呼ばれ、フェリーから見える灯台が立っている岩礁です。この「宇治瀬」が「兎道瀬」からきており,神話の因幡の白兎に因んで、古来潮路の波の穂に跳ねる兎をえがきその「宇治」の名を以て、神様(宇治瀬大明神)をお呼びしたと御由緒書には書かれています。
① 桜島沖の小島「神瀬(かんぜ)」今の灯台近くに鎮座していた。(下地図参考)
② 桜島の横山(鹿児島市桜島横山町)に遷座。
③ 室町時代の頃に桜島から現在地へと遷座。

※ 海神を祀る聖地であるとともに、活火山の桜島そのものをご神体としていた。かつてはこの小島の神瀬から桜島が「籠」のような形に見えたので鹿篭(かご)島とよんでおり,鹿児島の由来となっているそうです。

・ 鹿児島神社の境内

甲突川の地名由来について
また,江戸期に図絵等によって呼び方が統一される以前は,大きな河川はいくつもの呼び方が存在していました。甲突川もかつては「江月」「神月」「堺川」「大野川」「草牟田川」など地域によって呼び方があったようです。その中で,神月川の名は宇治瀬神社(今の鹿児島神社)の神嘗(かんなめ)月の祭から生まれた「神月(こうつき)」であると記されています。各地の地名由来を調べることは歴史の入口に当たります。地名由来には諸説あり,次に甲突川の由来で必ず語られるお話を取り上げます。
山田弥九郎有家と多田七郎の一騎討
九州平定の戦いや朝鮮出兵,関ヶ原の敵前突破で有名な出水地頭の山田昌巌有栄の一族は代々島津家を補佐してきた名門です。この昌巌より10代前の山田弥九郎有家も武勇で知られ,甲突川の地名由来の一つとして知られる逸話が残っています。
「山田昌巌翁伝」によると, 昌巌の10代前の当主有家は,南北朝時代の1354年に武家方に属していた島津貞久軍門として戦っていました。一方懐良親王の宮方派の畠山氏の家臣団の中に多田七郎という強者がいました。東福寺城攻略の戦いが連日激しい合戦が続いおり,島津軍が城山麓の平田町近くに,畠山軍が甲突川右岸の鷹師町側の河川敷に陣をはり川を挟み両軍が対峙していました。当時の甲突川は暴れ川で,今の新上橋近くのJR高架橋辺りから川筋を変え,国道3号線に沿って平田町の横を通り天文館の御着屋(俊寛が船出した河口港)方面に流れていました。ですからこの河口辺りが最前線で,両軍の戦いが連日繰り広げられていたのです。 この時,笠印や袖験など美しい武具を付けていた多田七郎が「我こそは畠山軍にその名を知られた多田七郎という者です。島津御家中にも山田弥九郎殿ありと各地の合戦で功名を立てた武将がいると聞いています。これまでご縁が無く未だにお会いしたことがありません。今日は是非,私とお手合わせねがいたい」 と大声で叫びました。 多田が名乗り終る前に,有家は130㎝の大太刀を抜きながら,片手に楯を引き下げて,陣中より躍り出てきました。「山田弥九郎登場,いざ勝負」と叫んで多田に立ち向かいました。 両軍の多くの軍勢が二人の勝負を見守り,しんと静まりかえっていました。勝負はどうなるのだろうか,手に汗握って見守っているうちに,多田がまず長太刀を大上段に振りかぶって石火のごとく斬りおろしました。有家はこの程度の太刀さばきは分かっているとこれを受け止めたが,勢い凄まじく楯の片端を見事に割られていたました。だが有家もすかさず躍り込んで多田の鎧の袖頭より腰下を覆う草摺にかけて切り落とした。さらに多田もさるもの,今度は有家の冑の吹返しまで切り裂きました。こうなるともう組んで雌雄を決するほかなく,お互いに刺し違えもしかねない形相にそばで気を揉んでいた家来たちは,それぞれの主君に駆け寄って二人を引き離し,互いの陣所に連れ戻して行きました。ところが,弥九郎有家は途中から再び引き返し,先ほど切り落とした多田の見事な甲の袖験を太刀先に突き刺し,「今日の一騎討は華やかで美しい振舞で,我が国にも他国にも例のないことであった。ここにいる敵も味方も後世への言い伝えとせよ。」と大声で叫んだので,聞く者敵味方なく両者の武勇を褒め称えたと言うことです。 この故事から甲(かぶと)を突き刺す「甲突」となったそうです。これは後の江戸期に作られ郷中教育で語り継がれた逸話であるようです。 |
※ なお,甲突川の地名由来には諸説ありますが,地形地名の立場からの自説を述べると,「甲」は九州地方に多い河川の「こう」と言われています。神殿・古殿(河戸野),幸加木川(河の流れで搔き削られ河川域が洪水の度に変わる暴れ川)や甲突川(河の流れに突かれて土手が削られた暴れ川)など説を採りたいと思います。