今週のチョッちゃん
今週の連続テレビ小説「チョッちゃん」では,疎開先の青森県・諏訪ノ平で,旅回りの劇団の子役が病気になり,その代役として加津子(徹子)が舞台に立つという場面が描かれていました。もしそれが事実であれば,後の黒柳徹子さんの活躍を考えると,とても興味深いエピソードです。

このドラマのモデルとなったのは,黒柳徹子さんの母・朝さんで,実際にご家族と共に青森に疎開されていたのは事実のようですが,この舞台に立ったというエピソードは,どうやらドラマ上の創作のようです。ドラマでは,病に倒れた劇団の子役・光代の代わりに,加津子が急遽出演するという設定になっていました。
戦後の大衆演劇は,昭和の終わり頃まで全国各地で盛んに行われており,私も小・中学生の頃,父の関係で県内の芝居小屋や公共施設で,旅回りの劇団の公演を見に行ったことがあります。彼らは1〜2ヶ月単位で各地を巡りながら,芝居を上演していたのです。
桜木健一さんのショー
私には,旅芸人にまつわる思い出があります。小学校高学年の頃,私のクラスには年に数回,旅芸人一座の女の子が転入してきていました。その子は,劇団の巡業にあわせて,毎年夏と冬の2回ほど鹿児島に戻ってきては,私たちのクラスに在籍していたのです。きっと学校とその家族とのあいだで何らかの話し合いがなされていたのでしょう。数年間は,教室のいちばん後ろの席が,いつも彼女のために空けてありました。
ある日,クラスの女子数名が,その子とのお別れ会を兼ねて,城山遊園地へ出かけていました。ちょうどその日は,遊園地の野外劇場で,当時人気だったドラマ「柔道一直線」(昭和44年6月〜昭和46年4月)の主人公・桜木健一さんのショーが開催されていたのです。
どうやら,そのショーを見ることが,女の子たちの本当の目的だったようです。真っ赤なジャケットを着た桜木健一さんが登場し,サイン会や握手会も開かれていました。その子は桜木健一さんの大ファンで,舞台を見つめる彼女の目は,本当に嬉しそうでした。

・ 城山遊園地の観覧車(オープン・ゴンドラ)
オープン・ゴンドラの観覧車
偶然,私たちは,トランポリンやローラースケート場で遊んでいましたが,女の子たちがいることに気づき,途中でそのショーに合流しました。その後,ゴーカートやティーカップ,スリラー館など楽しみ,最後は観覧車に一緒に乗ることにしました。当時の観覧車は今のように安全なボックス型ではなく,屋根のないオープン・ゴンドラで,危険防止からシートベルトを締めるルールになっていました。

※ 観覧車といえば,遊園地の中でも比較的安全な乗り物として知られています。しかし,昭和30~40年代頃までの小さな観覧車は,現在のように安全設備が整っているわけではありませんでした。当時の「城山遊園地」にあった観覧車は,天井フレームやドアガラスのない,いわゆる“オープン・ゴンドラ”でした。

遊園地への出入り禁止
その観覧車のゴンドラは4人掛けで,座席にはシートベルトが備え付けられており,乗る前には係員が丁寧にチェックしていました。その日,私たちがその観覧車に乗っていたときのことです。ゴンドラが頂上にさしかかったとき,同乗していた隣の男子が突然シートベルトを外し,身を乗り出して下にいる友人たちに向かって大声で手を振りはじめたのです。
その様子を見ていた係員が,観覧車が降りてくるのを待ち,すぐに私たち全員を事務所へ連れて行きました。そこにはあのローラースケート場の係のおじさんがいて,「またお前たちか」と,長いお説教が始まり,厳しく叱られました。そして最後に,「お前たちは出入り禁止だ」と告げられたのです。
私はその危険な行為をしていたわけではなかったので,「僕もですか?」と尋ねました。すると,そのおじさんは,「全員,1か月出入り禁止だ」と改めて言い渡しました。当時の大人は,悪さをする子どもたちには厳しく接していました。今思えば,あのゴンドラの構造では,どれほど危険な行為だったかが分かります。

・セイカアイススケート場
アイススケート
それから城山遊園地に行くことも次第に少なくなり,数年後には閉園してしまいました。
次に私が夢中になったのは,夏場の卓球と冬のアイススケートでした。卓球は,新照院町にあった「ローレ卓球場」によく通っていました。冬になると,セイカスケート場に通い,アイススケートに挑戦していました。
初めてアイススケートを体験したとき,ローラースケートとはまったく違う感覚に驚いたのを覚えています。横に滑る感覚が残り,今までにない難しさがありました。ただ,アイススケートは入場料が高かったこともあり,頻繁に通うこともなく,ローラースケートのように夢中になることはありませんでした。それでも,どれもよく遊んだ楽しい思い出で,貴重な時間でした。