明治の廃仏毀釈の余波~南方小学校設立の経緯~【R5】7月15号

1 県内で諏訪神社を校名の由来としている学校は曽於市立諏訪小学校鹿児島市立南方小学校がある。この南方小学校設立の経緯が興味深い。「郡山郷土史」に南方小学校の設立までの経緯が詳しく記されている。大正9年の8月に花尾小が,9月に南方小が一カ月差で分立した背景は,校名にまで拘った東俣・川田両地区民が知恵を絞った結果であったのだろうか。

※ この小学校設立時の校名にかかわる話は大正期によくある全国的な逸話である。それほど小学校は地域にとって重要な存在だったのであろうが,郷土誌にまで掲載されるのはさすがに珍しい。

① 鹿児島市立南方小学校

 「郡山郷土史」によると明治から大正にかけて小学校の設立や分立を通して,村内の集落間の争いが激しかったようだ。特に東俣と川田地区の意見衝突は激しく,鹿児島・小山田への道とトンネル(東俣隧道)を通してしまうほど徹底していた。

② 南方尋常小学校跡(湯屋)

③ 東俣隧道

2 「ふるさとのお社(県神社庁)」によると,県内の南方神社(69社)・諏訪神社(38社)で計107社の諏訪系の神社があり,さらに明治39年の神社合祀(一村一社令)で県内の南方・諏訪神社の名が消え,他の神社に合祀された神社もあるのでかなりの数になる。

 全国的に諏訪神社は多いが,南方神社は明治期以降,鹿児島に集中している珍しい神社名である。もちろん祭神の建御名方神・建南方神から取った名称である。「南方神」の漢字表記からミナミカタの呼び名がついたと思われる。元々,建(タテ)・御(ミ)・名方(ナカタ)から「猛々しい名方の御神」の意味である江戸期の本居宣長説が強く,ミナミカタの呼び方はおかしいと思われる。

3 南方神社の読み方について

 枕崎市鹿篭麓町に鎮座する南方神社の名称は、「ミナミカタ」でなく「ミナカタ」である。枕崎市誌によると、南方神社は古来、健御名方命と事代主命の二神を祀り、諏訪神社と呼ばれ、鹿籠(明治の初めまでの枕崎市区域全体の地名)の産土神として奉祀されている。

 廃仏毀釈の嵐の中,仏教界からの指摘で諏訪神社の御祭神・事代主命が仏教色の強いエビス神と同一化されていたことで問題となった。

 明治5年に、県令の命を受けた神官・本田出羽守が県内の神社を臨検し、御祭神を事代主命を外し、健御名方命(タテミナカタ)と妃の八阪刀売命とし、社号を(ミナカタ)神社と改名させている。後に充てられた漢字読み「建南方神」からミナミカタとなったと考えられる。つまり南方小学校は「ミナカタ」小学校になっていた可能性も残るという話だ。

4 他に類がないほど激しい廃仏毀釈

 日新公の母常盤も幼いころ薩南学派の教えをこうていたことが伝わるように,戦国時代から薩摩は儒学や神道などが盛んで,桂庵玄寿朱子学の教えは当時全国の最先端であった。江戸期に朱子学が幕府の学問になると,島津重豪や斉彬も国学を重んじ殿様自ら率先して学んでいた。朱子学も同じ外来学問で矛盾するが,薩摩では仏教勢力に士族の一部や農民までも苦しめられた経緯があり…必然と幕末には仏教排撃の機運が高まったとのこと。しかし,その中に島津氏由縁の寺院も含まれていたことが驚きである。慶応2年の初めから仏寺を毀し,寺の所有していた財産は軍費に充てられていた。

5 郡山町の花尾・南方小の学校沿革史

 年  代    学 校 設 立 ・ 移 設 に 関 す る 出 来 事
明治 5年・ 県の神官・本田出羽守が臨検し,事代主神を八坂刀売命に変えて祭らせ各地の諏訪神社に改名を迫った。明治初期に過半数の諏訪神社が南方神社と改称し,南方神社となっている。
※ 諏訪神社のままであれば,南方小は諏訪小学校と呼ばれたのか?
明治 9年・ 信仰の自由」の令達。以後一向宗を含め信仰は自由となり,諏訪神社を南方神社と改める必要がなくなるが,この後も続いている。この時もとの諏訪神社に戻す村もあったという。また,ここから本県における本願寺派の巻き返しが…?
明治12年・ 川田小学,東俣小学,厚地小学,西俣小学,大浦小学が設置させられる。
明治18年・ 大浦小学と西俣小学が郡山小学に合併。川田小学は東俣小学に合併。
明治19年・ 東俣簡易小学校が設立。
明治20年・ 小学校令により郡山小は4年制の尋常小学校となり,他は3年制の簡易小学校となる。
明治23年・ 改正小学校令の公布により,簡易小学校が尋常小学校になる。 
明治25年・ 厚地簡易小学校(厚地小)と東俣簡易小学校(東俣小)が合併し,中間地の湯屋の南方神社敷地に南方尋常小学校が創立された。学校名になった南方神社は諏訪神社のことでこの辺りは諏訪神社の宮田に当たり,諏訪田姓が多く残る。その後児童数が増えたことにより校地が狭くなり,それぞれ元に戻ることになる。
明治34年・ 郡山尋常高等小学校が誕生。当時高等科併設校は少なく,一時期近郊の小山田小や皆与志小,下伊集院の嶽・有屋田方面からも入学していた。
明治42年・ 東俣東秀青年会,東俣永山青年会,川田青年会が発足。東秀舎(東俣),共進舎(川田)が発足。
※ 川田の諏訪神社は大王神社,住吉神社を合併して南方神社と改称する。
大正 5年・ 南方小の増築をめぐり,移設派と現地派に二分する。このとき南側の川田地区と北側の峠・岩戸地区は遠くなるので反対の立場であった。
大正 6年・ 保護者は1校派,議会は2校派が多数。(若い保護者たちの声が大きくなる)
大正 8年・ 南方尋常小学校を二つに分ける案が出た。東俣地区民は大反対し,郡山村を脱退し伊敷村に合併する案を協議する。そこで合併に伴い道路とトンネル開設することになり,5月に着工し(翌年3月竣工)小山田町に通じる道とトンネルを開設した。
《写真③》
大正 9年・ 古校舎は川田に移設(現南方小)され,花尾小は現在地に新設された。
・ 4月,南方尋常小学校に実業補習校を併設。
・ 8月,花尾尋常小学校(校名は花尾神社から)が先に分立。
・ 9月,南方尋常小学校が川田の現在地に移転し,南方の名称を残す

※ 東俣の住民は,学校が川田地区(川田町1415番)に決定してから更に反目し合っており,打ち解けるまで2~3年かかったそうだ。もし校名が住所から川田小学校となれば更なる火種になっていたかもしれない…。

 ようやく8月に花尾小が湯屋から先に分立し,9月に南方小が南方の名を冠したまま川田へ移転したことで,校名にかかわるある程度の問題解決ができた。なお,当時川田から塚田に通じる道がなく,この時の小山田への道とトンネルは後に乗合自動車が通り大変便利になったとのことである。(めでたし…めでたし~)

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