曽木の滝と川ざらえ

船着場

 前回の布計小学校跡の続きです。次に曽木の滝を訪れ,満開の桜を楽しみました。その日は,「ひなと桜の春まつり」が開催されていて,会場は家族連れでたいへん賑わっていました。会場内では,ひな飾りの展示やワークショップ,ステージショーなどが開催されていて,心和むひとときを過ごすことができました。滝を見に来るたびに,毎回「白蓮の和歌」の石碑を見ます。

もののふの 昔がたりを 曽木の滝 水のしぶきに ぬれつつぞ聞く(白漣)

 この柳原白蓮の和歌の直訳としては,「この地に伝わる物語を,雄大な曽木の滝を前に水しぶきを浴びながら聞いていると,もののふたちの思いがこぼれ落ちそうです」でしょうか。

歌人・柳原白漣の歌碑

 昭和32年に世界平和運動の講演のために訪れた際,案内人を務めた郷土の医師から,新納忠元と豊臣秀吉の会見や滝見物の言い伝えや「川ざらえと薩摩藩の米の流通」などの話を聞いた後に詠まれたエピソードが紹介されています。

 曽木の滝の激しい水しぶきを浴びながら,文武両道に優れた新納忠の武勇伝や,堀之内良眼房による船着場設置と川ざらえによってこの地の米の流通が大きく改善されたという逸話を,しみじみと拝聴する情景が思い浮かびます。これらの話は,単なる歴史的事実にとどまらず,地域に生きた人々の知恵と努力を今に伝えるものとして深い味わいを持っています。
 また,細川幽斎の下の句「鼻の下にて鈴虫ぞなく」に対して即座に上の句「上髭をちんちろりんとひねりあげ」返歌したという教養豊かな逸話にも触れると,同じ歌人として柳原白蓮が興味を抱いたであろうことは想像できます。武の世界に生きながらも,和歌のたしなみを忘れなかった武将の姿は,時代を超えて心を引きつけます。
 さらに,「上髭をちんちろりんとひねりあげ 鼻の下にて鈴虫ぞなく」といったユーモラスな表現には,常に命を懸けて戦っていた武将たちのどこか人間味あふれる気配や余裕すら感じられます。勇ましさや教養の高さだけでなく,こうした軽妙な一面が伝わることで,歴史上の人物がより身近な存在として立ち現れてくるように思われます。このように,豪壮な自然と人々の営み,そして和歌の世界が重なり合うとき,過去の物語は単なる「昔話」ではなく,今なお生き生きとした響きをもって私たちの心に届いてくるようです。

堀之内良眼房~川ざらえと米の流通

 今回,初めて堀之内良眼房が築いたとされる船着場まで見学しようと足を延ばしました。宮人川ビオトープを通り過ぎ,道に沿って下って川内川に出た所に案内板が設置されていて,この場所に船着場が存在していたことを知ることができました。

 実際の船着場跡は何年か前までは残っていたそうですが,豪雨で倒壊して往時の姿は確認できませんでした。それでもなお,川を眺めると,かつてここが人や物資の往来を支えた重要な拠点であったことに思いを馳せることができました。

 案内板によると,米倉は上木場(上ン倉)と下木場(下ン倉)の二か所に分かれ,それぞれ4棟ずつ建ち並んでいました。上ン倉には大口・山野・羽月の3村からの上納米が,下ン倉には菱刈・本城・湯之尾・曾木の4村からの上納米が一時的に保管されていたとされています。そして,この地の船着場から菱刈七か郷の上納米を集積し,宮之城へ舟で運搬していたとのことです。その際には,44隻もの船が用いられていたそうです。

 川内川とその支流が広がる流域は,大口盆地や北薩の田園地帯を潤し,県内有数の米どころとして「薩摩の米蔵」と呼ばれてきました。江戸時代以降,この地域では灌漑のために井堰や用水路が整備され,水運による米の輸送も行われていました。そのため,川を整える大規模な浚渫も繰り返されてきたのです。

 当時,大口の農民たちは自ら年貢米を宮之城まで運び納めていました。しかし到着後も検査に時間がかかり,2~3日滞在することも珍しくなく,大きな負担となっていました。そこで良限房は,その苦労を軽減するため,曽木の滝の南に米倉を設け,そこから川内川を利用して船で宮之城へ運ぶ方法を考えました。

堀之内良眼房

 当時北薩のこの地は藩の直轄地であり,大口や菱刈の農民たちは,年貢を納めるために山道を4〜5日かけて米蔵のある宮之城まで運ばなければならず,大きな負担となっていました。これを知った堀之内良眼房は藩に働きかけ許可を得て,川内川の改修に乗り出します。

 天保13年から始まった工事では,石工や人夫を集め,流れの激しい川に点在する大岩を砕いたり,滑車で引き動かしたりと,地道な作業が続けられました。特に川底の岩を取り除く作業は困難を極め,土のうで水をせき止めながら砕く方法で進められ,完成までに2年5か月を要しました。こうして川は整えられ,ようやく舟で米俵を宮之城まで運ぶことが可能になったのです。結果として,農民の負担は大きく軽減されました

・ 地域別に上ン倉と下ン倉の二か所に分かれていた

 曽木の滝公園の近くに,「曽木発電所遺構」の赤レンガ造りの建物があります。これは明治42年(1909年),牛尾大口金山へ電力を供給する目的で建設された水力発電所の跡で,地域の近代化を支えた貴重な歴史的建造物の一つです。

 しかし,数年前の豪雨災害により,建物の壁面の一部が倒壊し,その復元に向け崩れたレンガが丁寧に回収され,現在は米倉跡付近に保管されています。

 かつて地域の発展を支えたこの発電所の歴史的価値は積み上げられたレンガの一つ一つに明治期の営みを伝えているように感じます。この風景を見ると8・6水害の「新上橋の石材」も埋立処分せずに,ぜひ保管して欲しかったと今でも思います。世界遺産が3カ所もある鹿児島県であれば,当然のことと思うのですが…。

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