幸加木川上流の木村探元の墓と六地蔵塔

木村探元の誕生地(平田)と墓(小野)

・ 幸加木神社入口の探元の墓地  

 木村探元は,薩摩を代表する全国的に有名な絵師ですので詳細については割愛します。木村家は,小野町の高嘉木(幸加木)から興った家系で神社の入口に木村家代々の墓と探元のものがあります。

 この家系は,「鎌倉殿の13人」で知られる北条得宗(嫡流家)家の9代執権である貞時の子,時任に由来します。時任は各地を転々と遁れ,最終的に島津氏久を頼って家臣となりました。時任の孫である時勝の代に祁答院から小野高嘉木に移住し,先祖が崇敬していた熊野三社の神体を奉祀し氏神として幸加木神社を築き,木村を名乗ったとされています。そして,その10代目当主である時喜の次男,時経(ときつね)が,「見事探元」で知られた木村探元なのです。

・甲突川左岸・平田橋たもとの広場

甲突川と幸加木川の河川名

(1) 幸加木の古い表記は「高嘉木」とされ,後に「幸加木」に変わっています。また,例によって地名由来の考察ですが,かつての甲突川の河川名は,伊敷川や草牟田川など地域ごとに異なっていました。甲突とは河頭(川上)近くの呼び名で,河「」が川岸に「」き当たる流れが変わるほどの急流を指している所と考えています。また幸加木川についての有力な説の一つに,染物屋(藍で布を染める紺屋)のことを紺搔き(こうかき)」と言い,川沿いに染物屋が何件もあったからと「紺搔き川」となった言われるものです。職業由来の地名はあり得ますが,「山間部の根から迫が広がった原(尾野・小野・斧)」の小野地区は細長い扇状地として田が点在した地域なのです。中福良などの地名が残るように河川名として「紺搔き」は考えにくいと思われます。

 頴娃の水成川(水鳴川)や郡山の轟滝近くの農家は,季節の移ろいを知らせる水の音を聞き分けていると聞いたことがあります。ここ小野の幸加木川沿いも同様に,幸(河)加木(搔き)「削り取る・掻き鳴らす」地形で「①川の流れで削られ河川流域がよく変わっていた」「②川の流れでゴーゴーとかき鳴らす音がする」ことに由来するはいかがでしょうか。特に石切り場近くは,雨などで水量の多い夜は川の流れる音がうるさい地区です。また小野地区は洪水で川筋が度々変わり,護岸が整備されてようやく治まったと地元の農家の方に聞いたことがあります。藩もこの水量の多さを生かし,石井手用水に幸加木川の水を加えて下流に流すための井堰を造っています。 

(2) 県のホームページによると,甲突川の名は,三国名勝図会によれば「神月川」とされており,「甲突川」は俗な表記とされているそうです。しかし,ここでも郷中教育が関わってきます。城下士の子弟教育の中で,「兜(甲)を突き破った」ことに由来する「甲突川」が公的に採用された説が取り上げた時期があったようです。これも下記の故事の如く,島津武士に寄り添った由来なのです。

(3) 山田弥九朗有家

 泗川の戦いや関ヶ原の退陣で有名な出水地頭の山田昌巌有栄。彼の10代前のご先祖である山田弥九朗有家にまつわる伝説です。1354年の東福寺城の攻略戦は、今の山田電機から新上橋・平田橋のたもと(木村探元誕生地)一帯で戦いが繰り広げられていました。連日激しい合戦が続いた後,川を挟んで敵味方の膠着状態が続いていたところ、突然、北朝方の畠山軍にいた多田七郎という者と山田弥九朗有家が一騎打ちすることになりました。

 そして山田は多田の冑(甲)後ろの家紋の付いた袖験(そでじるし)を突き刺しましたが、決着は付かずお互いの家臣に引き離されました。ところが、弥九朗有家は再び戦場に戻り、多田の袖験を突き出し、「只今の働き、強剛華美の振舞は、異国にも本朝にも例がないことだ。敵も味方も今後の語り草とせよ」と大声で叫びました。それを聞いていた敵味方ともに歓声で両者の武勇を褒めたたえたと伝えられています。この故事から、「甲を突き刺した川」から甲突川の名が生まれ、郷中教育で伝承されることとなったようです。島津側から見れば,この行為は「敵味方の識別に用いられる印を奪い取る」ことは非常に名誉ある意味を持っていたようですが,この時代,大将同志が一騎討をする風習は無く薩摩の掟違反だった筈です…?さすがに地名由来となると厳しいと思われます。資料「山田昌厳翁伝」

木村探元の墓と六地蔵塔

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(六地蔵塔)

・ 六地蔵塔の碑文
 木村氏祖北条泰家肇来于薩之祁答院,其孫木村五郎左衞門マヽ 尉時勝居高加木山側,延及厝見時堯其間創一寺於宅南,時マヽ 堯遷居寺,既廃久,宅与寺其跡猶存此地,旧塚累々者,泰家以来,代々宗支家属之墓也,方今時央遠嗣後塵 敬心洒掃,然世移,誌滅,難区別之,故就其傍建石,浮図雕刻,六道能化像,追備資福,且記其由,永伝後昆者也, 享保十六年辛亥十一月吉辰願主木村四郎左衛門平時央謹造立焉
・ 訳
 木村家の祖は北条泰家で,ここ薩摩の祁答院においてその孫木村五郎左衞門尉時勝が幸加木川。暦を見た時邸宅の南側に寺を創建し移した。初代泰家以来,代々墓である。跡継ぎもなく,心を込めて掃除もしています。寺は既に廃されているが,時が流れ,代々の者の塚や親せきの墓である。誰の墓か区別もつかないがその傍に絵が浮刻された六地蔵塔を建てた。1731年吉日 施主木村四郎左衞門平時央が冥福を祈り,子孫のために長く伝えるため由来を記し謹んでこの地に建立する。
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