【Ⅰ】封筒の中の学校便り(紀元2600年記念事業)
かつて私が勤務していた学校の校長室には大きな金庫があり,その中の引き出しを開けると,古い封筒が入っていました。封筒の中には,当時の学校便りや子どもの作文,行事の写真などが,丁寧に収められていました。なぜこのような資料が金庫に保管されているのだろうと,不思議に思いました。その中に筆で書かれた「八紘一宇(はっこういちう)」と大きく書かれた色紙と写真があり,戦時中この言葉が教えられていたことが分かりました。
また,役場からの通知文が同封されていました。そこには,戦後,GHQの方針により,国家神道や軍国主義を連想させるとして,公文書での使用が禁止されたこと,そしてそれに該当する資料や作文,詩などの掲示物は撤去・廃棄するよう求める内容が記されていました。

「八紘一宇」という言葉は,『日本書紀』にある「八紘(四方八方)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」という記述に由来しているそうです。この言葉は,「全世界を一つの家のようにする」という意味に解釈されてきました。当時の軍部のこの考え方は,欧米列強による植民地支配からアジア諸国を守るという理想を掲げ,スローガンとして用いられるようになりました。しかしその言葉は,次第に政治的・軍事的な意味合いを強め,国民を煽る役割を果たしていきました。
戦後になると,GHQの方針により,「八紘一宇」は国家神道や軍国主義を連想させる表現として,通知文で使用が禁止されました。その決定は学校をはじめとする各現場にも通達され,これに関連する多くの資料が廃棄されることになりました。
こうした経緯を振り返ると,言葉そのものが持つ本来の意味と,時代の中で与えられた役割との間には,大きな隔たりがあったことに気づかされます。戦争の大義名分は双方ともにあるのです。歴史の中で使われ,そして消されていった言葉を丁寧に見つめ直すことは,過去を理解し,同じ過ちを繰り返さないためにも大切なことのように思います。
おそらく当時の校長先生は,こうした資料を処分することに抵抗を感じ,あえて隠すようにして残されたのではないかと思いました。時代の証言とも言えるこれらの資料を,後世に伝えたいという思いがあったのかもしれません。
そこで,この「①記念事業の趣意書」と「②子ども作文」を紹介します。なお,残されていた作文の中には,偶然にも在校生の祖父にあたる方の作品がありましたので,ご家族に連絡を取り,コピーをお渡ししました。思いがけず,過去と現在をつなぐ小さな縁が生まれた出来事でした。(作文は下記②で紹介します)
「①紀元2600年記念事業」昭和15年10月25日
| 1 原文 光輝ある紀元二千六百年 御稜威は彌栄に八紘を掩ひ,聖戦ここに四星霜皇軍の戦捷愈大陸を制し,国家総力を挙げて東亜新秩序建設の聖業完遂に邁進の今日。且つは教育勅語御渙発五十周年を記念して左記事業を企画。而して之が財源を校区民並びに在外者よりの寄付を仰ぎし所各位は其の企画を諒とされたし…。 2 現代語訳 紀元2600年(昭和15年)という節目の年を迎え,人々は国の行く末に思いを重ね,繁栄と安泰を祈る声を高く上げていました。「弥栄(いやさか)」という言葉に象徴されるように,国が末永く栄えることを願い,世界を包み込む理想を掲げていた時代でもあります。 当時は,いわゆる「聖戦」と呼ばれた戦争のさなかにあり,皇軍の戦果が強調され,大陸に勢力を広げていると受け止められていました。国家は総力を挙げ,東アジアに新たな秩序を築くという大義のもと,さまざまな事業に邁進していたのです。 そうした時代背景の中で,教育勅語が発布されてから50年という節目を迎えたことを記念し,下記の事業が企画されました。同時に教育勅語御渙発50周年を記念して左記事業を企画することにしました。 記 「①ラジオ購入②学級文庫250円 ③学校林設置 ④銅像建立(楠公或いは尊徳)800円 ⑤「電気サイレン設置」この事業は,校区民並びに在外者の寄付を主な財源として取り組みます。 |

・ ラジオと電気サイレン
学校にある二宮尊徳像
また,資料の中には,銅像建立に関する記録も残されていました。その予算800円は,現代の価値に換算するとおよそ130万円程度になるようです。当時としては決して小さくない金額であり,学校や地域がこの事業に込めた思いの大きさがうかがえます。銅像の題材として挙げられている「楠公」とは,楠木正成のことで,天皇に忠誠を尽くした人物として高く評価され,その忠誠心を国民に示し,模範としようとしたと伝えられています。

「尊徳」とは二宮尊徳のことで,貧しい境遇の中でも努力を重ね,学問に励んだ人物として知られています。特に,薪を背負いながら歩きつつ本を読む姿の像は,戦前の修身教科書にも取り上げられ,勤勉さや忍耐の象徴として広く紹介されました。こうした背景から,昭和10年代を中心に,各地で尊徳像が盛んに建立され,特に鹿児島は多かったようです。
しかし戦時中になると,軍部への「金属供出」が進められ,多くの銅像が供出されました。そのため,現在残っている金次郎像は,御影石製やコンクリート製,あるいは陶器製のものがほとんどで,全国的にも銅製の像は残っていないようです。これらの像は,戦時中の教育観や当時の価値観を今に伝える存在だと言えるのでしょう。
ところで,この記念事業の④銅像建立(楠公或いは尊徳)とありますが,私が勤務した10校のうち,今でも尊徳像が元々の場所に残っている学校が5校,戦後,撤去された学校が2校,裏庭に移されていた学校が3校ありました。なお,県内の学校で楠木正成像は,これまで一度も見たことがありません。
②子どもの作文「兄さんの見送り」
・ 封筒の中に子どもたちの作文も十数点入っていました。この作文は尋常小学校3年生の作品です。当時地域の老人クラブの役員をされていましたので,直ぐ分かりました。
| 私は毎日遊んで過ごしていましたが,とうとう待ちに待った兄の入営の日がやってきました。兄は青年学校の制服に着替え,身支度を整えました。家の座敷には,親類の方々や近所の人たちがたくさん集まってくださいました。 午前九時になると,皆そろって外に出て,自動車の来る場所へ向かいました。そこには自動車が二台止まっており,校長先生や在校生,軍人の方々,青年学校の関係者や生徒たちが大勢並んでいました。 兄が自動車に乗る前,周りの人たちは「おめでとう」「おめでとう」と声をかけてくださいました。兄はにこにこしながら,皆さんに丁寧にお辞儀をしました。そして見送りの人たちに向かって,「待ちに待った入営の日を迎えました。お国のため,天皇陛下のために働いてまいりますので,あとはどうぞよろしくお願いいたします。行ってまいります」と挨拶をしました。 やがて兄は自動車に乗り込みました。私も鹿児島まで見送ろうと,兄のそばに一緒に乗りました。自動車が動き出すと,見送りの人たちは旗を振り,声を張り上げて見送ってくださいました。「しっかりやってこいよ」と声をかけてくださる方もいました。兄も自動車の窓から旗を振って応えていました。停車場に着いたとき,私は悲しさをこらえきれず,「兄さん,しっかりやってきてください」と涙声で話しました。私もいつか,兄のように立派な軍人になって働きたいと思いました。 |

【Ⅱ】「士族」や「平民」が記された明治期の成績表
話は変わりますが,新任教頭1年目のことです。ある80代後半の高齢の方が学校を訪ねてこられ,「自分の尋常小学校時代の指導要録を写させてほしい」と言うのです。卒業してからすでに70年以上が経過しており,「保存期間を過ぎた古い記録は残っていないですよ」と答えました。
ところがその方は,かつてこの学校に長年勤務した経験から,その頃,自分の成績票を見たと言い始めたのです。そして「学校は絶対に処分しないはずだ」と強い口調で話し始めました。
さらに,戦時中に爆撃から守るため,一部の書類を倉庫へ移したこともあったと言われたのです。そこで,探して見ますので時間をくださいとお願いし帰っていただきました。
さっそく,体育館横の倉庫へ行き,半日がかりで段ボール箱を一つ一つ調べていきました。すると,数ある段ボール箱の中から,当時の成績表や指導要録が出てきました。下の方は水に濡れて染みていましたが,その方の箱は上段の棚にあり無事でした。校長先生に事情を説明し,本人確認ができていることを伝えると,コピーを渡してもよいとの許可をいただきました。私はその書類を持って,その方の自宅まで届けました。何に使うのか尋ねると,「自分史」を作るためだと答えてくれました。

・士族・平民だけでなく叙勲位まで記載されていました。
当時の成績表を見てみると,評価は「甲・乙・丙・丁」で記されており,時代を感じました。さらに印象的だったのは,氏名欄に「士族」「平民」という族称が記載されていたことです。これまで実物を目にしたことがなかったため,驚きました。調べてみると,大正3年の戸籍法改正までは,主に士族のみが記載されていたようで,「平民」が明記されている記録は,明治時代にまでさかのぼることが分かりました。一枚の成績表から,個人の歴史だけでなく,当時の社会の姿までも感じられた出来事でした。
最後に
宮崎市にある「八紘一宇の塔」と呼ばれる塔は,昭和15年(紀元2600年)に完成したものです。戦後,GHQの命令によって「八紘一宇」の文字は削り取られました。しかしその際,当時の県職員の方々がその文字を密かに運び出し,宮崎神宮の倉庫に隠していたそうです。

・塔に登る若者たち
・ 八紘一宇が外された「八紘一宇の塔」では,昭和50年代若者たち(一部は活動家)のロッククライミングの練習場として使われていたそうです。
歴史を調べる中で,いつも考えさせられることがあります。それは,時の統治者や権力者にとって都合の悪い事実が,書き換えられたり,消されたりしてきたということです。一つの価値観だけで隠された歴史は,決して歴史の真実のすべてを伝えているとは言えません。
だからこそ,歴史的価値のあるものや,統治者にとって不都合な事実も含め,すべてを並べて語ることが大切なのではないでしょうか。歴史とは,選別するものではなく,向き合うものだと思います。 また,危険を承知の上で資料や痕跡を守り,後世へ伝えようとした人々の行動には,深い敬意と感謝の念を抱かずにはいられません。その思いがあったからこそ,私たちは今,過去を多角的に見つめ直すことができるのだと思います。
日本では,「公文書公開」が他の先進国と比べて,ほとんど進んでいない実情について,個人的な考えを述べてみました。本来真実を明らかにするメディアが,様々な未解決事案等を踏み込んで追及すべきではないかと思うのですが…。
