桂庵玄樹が薩摩にやってきた理由

 

大内氏と島津氏

 大内氏による庇護の下,石屋や竹居,後の桂庵たちが防府や長門,薩摩,大隅,日向の禅宗系寺院で活躍したのは偶然なのでしょうか。大内氏は遣明船交易によって財を成し,勢力を拡大し,大内文化を築き上げました。当時,大内氏や島津氏など地方の有力大名は,宗教(禅宗)と交易(一部倭寇を含む)によって藩の経営を行っていました。寺院は藩の統治(教育)や中国交易(通事)として重要な役割を果たしました。瀬戸内海沿岸から対馬海峡,四国や日向,大隅,薩摩沿岸から大隅海峡は,両藩にとって交易の要衝であり,協力関係が必要でした。今回調査した,石屋派と薩南学派の寺院は,概ねこの交易路に沿って建立されているのです。

 桂庵玄樹は,応仁度遣明船の三号船(大内船)の土官として明に赴きましたが,帰国後,応仁の乱を避けて各地を転々としました。彼は島津氏の招きに応じて南九州に赴き,大内氏の外交僧的な役割も担っていたと考えています。当時,島津氏は室町幕府より遣明船の警固を命じられており,これも桂庵が南九州への赴任する理由の一つのようです。日向沿岸は遣明船の南海路に当たります。そこで,日向国を支配する島津氏(豊州家)のもとに桂庵玄樹を派遣し,飫肥の安国寺に入ったのは,島津忠昌の配慮があったと言われています。

・ 遣明船の乗組員は「①正使・②副使・③居座(副居座)・④土官・⑤客商・⑥従商・⑦船頭・⑧水夫」で100数十名が乗り組んでいました。③の居座が桂庵玄樹で副居座が雪舟であったようです。

大内氏の庇護(石屋と桂庵)


➊ 石屋と大内氏
①24代弘世(1352~1380) 
 1363 石屋(18才)入宋20年
②25代義弘(1380~1399) 大内氏の最盛期
 1390 石屋が妙円寺開山大内義弘の娘の供養,1394石屋福昌寺開山
③26代盛見(1399~1431)
 1404 盛見が石屋を招いて闢雲寺(泰雲寺)を開創 ,1407年大本山総持寺の20世,1410  大寧寺開山。龍文寺(徳山市)竹居正猶和尚開山。1423年、石屋79歳永沢寺で寂。
❷ 桂庵と大内氏
④27代持世(1431~1441)
 1436 桂庵,京都南禅寺の景蒲玄忻の童行
⑤28代教弘(1441~1465)
 1442年 桂庵剃髪,大内教弘に招かれて長門国永福寺住持
⑥29代政弘(1465~1495) 
 1467 雪舟(2年)・桂庵(6年)渡明。1471 瑠璃光寺 石屋派の大菴須益和尚(薩摩人竹居の弟子)が開山 1473 桂庵帰国 1478年、忠昌に招かれ大隅国正興寺、日向国竜源寺の住持
⑦30代義興(1495~1528) 
 1508 桂庵寂

下関・永福寺

・ 下関・永福寺(若い頃の桂庵が務めた)

・臨済宗南禅寺派 永福禅寺

・対岸の北九州市を望む高台にある寺院

・永福禅寺(上段)とかつての寺跡(下段)

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